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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

鶴林寺太子堂

この前の日曜日、兵庫県の鶴林寺に行って来た。出かけたのは揖保郡太子町の新しい役場が建築家の坂本昭氏によってできあがり、その見学会があったからで、これはこれで見事な建築で面白く、とても有意義な経験だったのだが、残念ながら町の意向で写真は禁止だった。

鶴林寺太子堂

そしてその帰りに、前から一度見たいと思っていた鶴林寺に立ち寄ったのだが、これが予想外にすばらしかった。というか、国宝の本堂に対面するのがとりあえずの目的だったのだが、もう一つ、小さいがやはり国宝の太子堂という建物があって、これが本当にびっくりするくらいすばらしかったのだ。久しぶりに強く興奮してやたらと回りを歩き回って写真を撮った。下の一枚目は東側から眺めた太子堂とその向こうに本堂。二枚目は太子堂の西側側面。右側の孫庇の屋根の曲線が絶妙だ。

鶴林寺
鶴林寺太子堂西側面

境内はあまり広くはなく、整然とした伽藍配置はというようなものはないようで、あちらこちらに建物が建っていて一見散漫とした印象。それでも門を入って正面に一番大きな本堂がでデンと座っており、これは室町時代のもの。日本の寺院建築で折衷様という様式の完成期の、いわゆる中世本堂と呼ばれる建築だ。書いたように国宝。

そしてその右手前に、小さいがやはり国宝で、さらに古い平安末創建の太子堂があり、それと対称的な左手前にも同じ時代の常行堂が建っている(下の写真)。常行堂はいつか屋根が瓦葺になってしまっているのが残念だが、木部のたたずまいはすごくシンプルな構成で上品。端正でやや力を抜いた平安調という感じでなかなかいい。これも重文の建築だ。ただ東側が正面で(写真では左側)、太子堂は複雑だが一応南が正面なので、対称的な配置にはなっていても、左右で建物の向きが異なっている。そんなこともあって「整然」とした伽藍配置には見えないのだろう。

鶴林寺常行堂

まあ中世本堂の好例とされる本堂となると、いかに国宝とはいえモダンデザインで育った私などには正直もうひとつよく分からない。だからあまり期待はしていなかったのだが、太子堂は、実は本ですでによく知っていた。「日本建築史基礎資料集成」という大型本のシリーズ第五巻に図面も含めて載っているのだが、この本には奈良の大安寺の護摩堂を手がけたときに大いに参考にした大分県の富貴寺が載っていて、設計中にはなめるように何回も開いては見たものだった。

そのときに、やはり規模も小さいこの太子堂の図面も繰り返し眺めた記憶がある。だから名前も含めてある程度覚えてはいたのだが、当時見ていたのは細部が主で、構成も複雑だったからか、自分としてはあまり評価はしておらず、国宝建築というのも記憶にはなかった。だからやはり実物を見ないことには「もの」は分からないと、あらためて思い知らされた。

鶴林寺太子堂背面

上は本堂の濡れ縁から眺めた太子堂の背面。この屋根が本当にため息が出るくらい美しかったが、やはり写真ではほとんど分からないのが残念。下は細部だが、舟肱木(ふなひじき)と呼ばれる部材のアップ。古代風に大面をとった姿がなんともやさしくてすばらしい。

鶴林寺太子堂舟肱木

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東大寺 正倉院

昨日は東大寺の正倉院へ行ってきた。二年ほど前から屋根の改修工事をやっていて、すでに何回か公開の機会が設けられてきたが、今回はほぼ工事が完了した最後の特別公開。今までにも申し込んだことがあったが、はずれで、今回ようやく当てることができたのだった。だから仕事が忙しいのをおして行くことにした次第。まあおかげでトンボ返りだったが。
大仏殿2014

昨日が公開初日で、朝一番の午前9時からの組だったので、早朝に起きて集合場所の近鉄奈良駅へ。6名一組だったが仕事の都合で1人が欠けて5名になった。1人が車で来てくれたので、それに乗り込んで東大寺の転害門(てがいもん)近くの駐車場に。そこから少し大回りになるが、せっかくだから正倉院と同じ天平時代の転害門まで歩いてから東大寺境内に入った。
転害門2014

受付で身元確認の手続を終えてから工事現場へ。今回の屋根修理の工事はほぼ完了したそうだが、まだ覆い屋に包まれたまま。初日の早朝だからか見学者がそれほど多くないのは有り難かったが、受付から工事現場までの道には左側通行の立て札。下の通路真ん中の赤いコーンもそれの仕切りだろう。ここまでの道路の真ん中には線引きされていて、週末の混雑が思いやられた次第。
正倉院覆屋

小一時間を見学に過ごしたが、若いスタッフはともかく、中堅の二人は早々に出て待っていた。「倉庫やもん!」という言葉に、それはそうやけどと、うなってしまった。自分は昨年まで護摩堂を手がけていたので、それなりにいろいろと興味深いところもあったが、そういう経験などなければ、確かに校倉造り以外にそれほど面白いところもないのかもしれない。

正倉院-1

中は自由に見学できるが説明はまったくなく、あちこちに係りの人たちが立っている(見張っている)だけ。途中でその1人に宝物は戻っているのかと聞いてみると、唐櫃は戻すが、宝物自身は、今は隣に立つ鉄筋コンクリートの建物に納められていて、ここに入れることはないとのこと。それを聞いたときは、かなり残念な思いがしたが、まあ1300年ほども必死に宝物を守ってきてくれたのは確かなわけで、現代になって引退して、ようやく穏やかな余生に入ったのだと考えてみると心も落ち着き、このまま末永く寿命を保ってほしいと素直に祈るような気持ちになった。先週、母を亡くしたばかりなので、ちょっとセンチメンタルになったのかもしれない。
正倉院-2

正倉院をあとにしてF君の提案で大鐘を見に行った。ここは二月、三月堂があるあたりと大仏殿との中間にあり、私は今までそれほど注目して見たことはなかった。でも創建当初のものという巨大な鐘ばかりか、鎌倉時代に建てなおされた鐘楼も国宝で、しかもそれは臨済宗を興した栄西が主導して作ったものだと聞かされてびっくりした。栄西は鎌倉初期に東大寺を再建した重源の後継者として勧進に指名されたそうだが、私には禅宗のイメージしかなかった。五回も中国に渡ったという怪物の重源だから、向こうで栄西と親しくなったと聞いても確かに不思議はない。「もの」としてはこの鐘がこの日の見学で一番深く印象に残ったかもしれない。正倉院は、やはり外観がディテール以外ほとんど見られなかったのが、残念だった。
東大寺鐘楼
東大寺大鐘

大安寺護摩堂の落慶式

昨日は、この7月に竣工した奈良の大安寺の護摩堂の落慶法要。

9月9日は重陽(ちょうよう)の節句。さらに日曜日でしかも大安という、今日はまことに稀有でお目でたい日ですと御住職が話されていた。落慶法要とはいっても、御堂最初の護摩焚の儀式も兼ねたささやかな規模とお聞きしていたが、行ってみるとそれでも100人以上は優に参列されていた。

主賓は、文化財界の大御所である鈴木嘉吉先生で、戦後まもない昭和28年にあった最初の境内発掘調査にも参加されておられる。「だから僕は大安寺とはもう60年ほどのお付合いになるんですよ」と、式典のあと、冷たいお茶で喉をうるおされながら、感慨深げに話されていたのが印象に残る。
護摩堂の落慶
われわれは堂内に招き入れられ、般若心経の大合唱の中での、おごそかでいて、ある意味かなり華やかな護摩焚の行に参列させていただいた。堂内にはぎっしりと人が入り、護摩焚きの炎も高く上がってかなりの暑さだったが、私は内陣天井にとり付けたフードの利きなどが気になって、最初は少し冷や冷やしながら見ていた。時間にして40分ほどだったろうか、堂内参列者の焼香も含め、とどこおりなく儀式も修了してようやく私も少しホッとすることができた。

それで終了かと思っていたら、引き続いて式典を行いますとのこと。出ると堂の外側入口脇に椅子が並んでいて、向かって左側の基壇上には作事方というか、鈴木先生、私、はい島棟梁、そして本尊の不動明王を見事に彫り上げられた矢野仏師という順で座り、反対の右側には信徒総代の諸氏がやはり横並びで席につかれた。

最初に名前を呼ばれたのでびっくりしたが、中央に立たれたご住職から、用意された感謝状を読み上げていただき、壇上で書状と記念品を手渡されて、私には全く予想外のことだったので、まことに恐縮至極、感激の次第であった。同じく棟梁、矢野仏師と続き、そのあとで鈴木先生が記念のスピーチに立たれた。

さすがに悠々たる語り口で、大安寺の歴史も交えながら、天平伽藍の偉容に始まり、これまでの境内整備の状況やさらには将来の展望についてまで話を進められた。

矢野仏師がその後に立たれたが、その合間に、私にも少し話してほしいと突然の依頼が来て少々とまどった。今日は鈴木先生が居られるので、私にお鉢が回ってくることはないものと思っていたからだ。

だから何の準備もしていなかったので、しどろもどろのところもあったが、晴れやかな舞台でスピーチまでさせていただき、私にとっても長く記念すべき、とても華やかな一日となった。

大安寺 護摩堂-2

先日の護摩堂は、総ヒノキ造りで、予算の割にはとても立派な材料が入っていると思う。施工してくれた はい島工務店の はい島棟梁の采配のおかげだが、私は初めてのお付き合いだし、ほぼ宮大工だけの工務店なので、工事監理はもちろん、普通は工務店の仕事範囲に入る工事管理まで含めて、かなり気を使った。
護摩堂内陣

さて同じ木造建築でも、住宅とかではなくこういう御堂とかとなると、ついこの前までは、建築基準法の埒外(らちがい)というようなところがあった。奈良でも有名なお寺があちこちで伽藍復興とかしているが、今の建築基準法の理論では、はるか天平の昔から現に建っているような木造の歴史的建築物に対してほとんど歯が立たず、官民が共同で頭をひねったあげくのエピソードのような裏話しは、いくつも聞いたことがある。中にはほほえましいというか実際笑ってしまうようなものまであったくらいだ。

今回は、最近ようやくそういう伝統木造に対しても有効性が確立されてきた「限界耐力計算」という特殊な方法を使って構造的検討をした。とはいえ構造計算の世界となると仮定と安全率の積み重ねというようなところがあり、また自然素材を主とした木造となると、普遍性に固執した科学(工学)にはもとよりなじみにくいし、何よりこのくらいの規模となると、私としては計算結果などよりも自分の肉体感覚の方を優先したいような気分さえある。とはいえ正面両脇の格子壁(耐震壁)のような新しい手法となると自分でも多少計りかねるところがあるのも確かで、建て方をした大工さんの一人が、「あれをはめたら一気に軸組みが固まったのでびっくりした」というのを聞いたときは正直うれしかった。

大安寺 護摩堂

いよいよ6月も今日で終わり。ブログの記事がまた一件だけになるのも残念なので、一枚の写真をアップしておこう。今週引渡しがあった奈良の大安寺というお寺の護摩堂だ。

こういう伝統建築を手がけることになろうとは、数年前までは本当に思ってもみなかったが、自分自身を振り返ってみると、若いときから伝統建築にも強い興味があったのは確かだ。伝統建築の木割り(現代語ならモジュール?でもない・・・)が、江戸時代の初めに、日本の史上初めて書物としてまとめられた「匠明(しょうめい)」という秘伝書があり、現代になって分厚い本文と解説からなる本になって出版されているが、安価でもないそれを無理して買ったのは、まだ自分が大学院生か就職後すぐのことだったと思う。
大安寺護摩堂

きっかけは、フランスに長く住んでおられた高田博厚氏という彫刻家の本を読んだことだった。建築の世界ではすでにモダンデザインが一般に普及しきっていて、それ以外のものは単に「古臭い」という一語で簡単に片付けられていた時代に、伝統建築も確かに「建築」であるという氏の主張に、心底からの強い感銘を受けたからだった。

まあフランスでは、例えばパリでも中心のシテ島にはノートルダム寺院が厳然と存在していて、ああいう荘重、壮大なゴシック(ロマネスク)建築を初めとして、歴史的建築に対しても、フランスならカルテジアン(意味不明かもしれない。デカルト的な思想をもつ人の意味)のフランス合理主義的な解釈がきちんと確立していて、その長い歴史をもつ展望の中での話しだったと、今では分かるが、若い私はそれに対して、ま正面から直接的な影響を受けたのだった。だから院生時代は奈良や京都の古建築行脚に時間を大いに費やし、今から思うと哀れになるほど真剣に立ち向かったような記憶がある。

だからこの護摩堂に対しても、設計の時間は大いにかけたし(まあ奈良市文化財課を通じた文化庁との折衝に時間がかかったからだが)、書くべきことはかなりたくさんあるように思うが、それはまたこれからおいおい書く機会もあるだろう。とりあえず今日は外観の写真一枚だけでご勘弁を