松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

姉歯建築士-3

ただここで言っておかなければならないのは、構造設計家とわれわれ建築家とは拠って建つ倫理的な基盤が少しというかかなり違うように思うということだ。構造の場合は、「技術者の良心」と言うか大学などの学者先生に近いスタンスで、「倫理」というよりも間違いを許さない「潔癖さ」あるいはある種の「正義感」というような言い方がふさわしいように思う。もちろんこれについてはいろいろな人がいるのは確かだし、個人的な倫理は埒外にしているので、これを読んで怒る構造設計家や大学の先生がたもおられるだろうが、議論の主旨はご理解いただけるのではないかと思う。

前提とする法律の条文があって、そこから答えは数学的に導かれる。そこに曖昧な雑音が入る余地はないわけだ。ただ技術の常として、現実をどう理想化し計量化して計算していくかという難問があるが、構造の分野では学会もまじえてほぼ微細にマニュアルを決めてくれている。だから構造設計者にとっては、持てるテクニックを駆使して前提からの首尾一貫した明晰な過程をたどって答えを出すというのが、ほぼその職能の中核ではないだろうか。だから前に書いた「技術者の良心」はこの作業とも表裏一体の関係だとわかる。・・・続く

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姉歯建築士-2

前に書いた続きだが、そういうはっきりした分業があるのに「建築士制度」はそれを一応無視した資格になっている。これは「建築家Architect」というある種全能の人間を理想とするような西洋の思想を下敷きにしていることもあるだろうし、日本でも昔の大工の棟梁はそれに近いような役割を果たしていたことがある。

ただ、これだけ技術的に進歩し、工業生産による部分が増してくると、設計の分業化も当然の流れだし、各専門家にはますますその場所を掘り下げた深い知識が要求されてくる。そういう現実と制度の間の矛盾が今回の騒ぎの一因でもあると思う。

まあ、姉歯氏の構造設計について言えば、コンピューターによるようになってから、われわれ意匠系の人間にとってはあまり書類をまじめに読む気がしなくなったというのは確かだ。ただそれ以前の手計算の時代でも、それをチェックするというような目で見たことはなかったと思う。

確かに構造設計は技術的な支えをお願いしている下請のような立場ではあるが、お互いにプロとしてのプライドも高く、気持ちとしては共同設計者ないしは設計組織のナンバー2というような処遇で、人間だから間違いはあるとしても、深い信頼関係の上にこそ成り立つ共同作業であるのは確かなのだ。・・・続く

大津行き

昨日から泊りがけで大津に行ってきた。大学の同期生の集まりで、20人ほど集まっての宴会。皆、建築専攻だが、大手ゼネコンの清水建設、竹中工務店、鹿島建設や大手設計事務所勤務のもの、国土交通省の役人もいる。不動産関係では三井不動産に電鉄系の近鉄不動産や京阪電鉄。私のように自営のものや失業中のものまでいて多士済々。東京や北海道からはるばる来たものもいた。今日は半数ほどは早朝からゴルフに出かけ、残ったものは朝食後、隣のプリンスホテルのラウンジでゆっくりとコーヒーをいただき、しばらく話をしてから分かれて帰路についた。

行き帰りの車窓から見える景色でも、紅葉が印象的だった。今年は久方ぶりに美しい紅葉にお目にかかったように思う。本数が多いせいか、桜の黄みがかった朱色があざやかで、とくに目を引く。写真はプリンスホテルの3階の窓から撮ったもの。前に広がる琵琶湖の対岸は比叡山のあたりか。

でも予想はしていたが、やはり姉歯氏の話題がかなり出て、とくに半当事者と言ってもよい国交省の者たちは宴会もそこそこに真剣に議論を作っていた。

十三会2005

姉歯建築士-1

これだけ騒ぎになっているので、仕事柄少しは触れておかなければならないと思い、書くことにした。新聞では単に「一級建築士」となっているが、多分、主な業務は構造設計だと思うので、このあたりの建築業界の事情を少し。

この業界で専門家として立とうと思ったら、まずは誰でも大学で建築教育を受けるわけだが、多くは工学部で、たまに芸大のように美術や芸術学部に入っていることもある。工学部では、専門過程は四回生の初めには大きく三つの分野(意匠・構造・設備)に分かれて担当教官を選択し、以後はそれぞれかなり異なった道を進む。

「構造」へ進んだ人はいわゆる建物の安全性を保証する構造計算が主な内容で、「設備」は、光熱水に関する環境的知識を学び、工学的には照明や空調・衛生設備などの設計の訓練を受ける。この二つはいわゆる専門的な工学技術者を育てるところといってよいだろう。残る意匠はというと、まあその他すべてと言ってもよいくらい雑多な分野が集まっている。歴史など文科系的な要素や芸術文化的な要素も強く、学者にでもなろうとしないかぎり浅く広くの雑多な知識をしいれて社会へ出ることになる。

結果的に、初歩は全員一通り学んだはずだが構造・設備など技術プロパーの分野については、意匠の人間には多少高度なレベルになれば歯が立たない。だから同じ「一級建築士事務所」と言っても、構造や設備専門のところもあり、多人数の大きな事務所ならすべてをこなすが、中に入るとやはりそれぞれまったく別の部署ということだ。・・・続く

城北フェスティバル

昨日は、久しぶりにボーイスカウトの活動に参加した。このところずっとあまり時間がとれず、半休眠状態。一昨日の土曜日、ちょうど月一回の定例の団委員会があり、久しぶりの地区の催しなので、午前中だけでもと出ることにした。

朝六時半に起床して出かける。息子はすでに年長のベンチャー隊で関係ないが、奉仕で出るとのこと。年少のスカウトたちを遊ばせる企画を組んでいるそうだ。一緒に行くかと思ったら、スカウトたちと同じ時刻でよいからと寝ている。こちらは準備する役なので先に家を出た。

好天に恵まれ、風もあまりなくてすばらしい日和。場所は目の前に城北ワンドが広がる淀川河川敷公園で、大阪連盟城北地区の本拠地。大きな芝生の斜面の上に広がる高くて青い空と向かいにあるワンドの豊かな自然、とてもすてきなロケーションだ。5つのテントをはり(写真は携帯でとったもので右端のがわれわれのテント、あと三つは左にあるが写真では切れてしまった)、各2団ほどが組んでそれぞれ日本各地の料理を出すという趣向。われわれは東北の「芋煮汁」。小芋を使い、鳥ではなくて豚肉をいれたが、本物を知らない私にはそれらしくできているのかどうかもわからない。でも暖かいのがとりえかあっという間に売り切れた。

こどもたちは、開会式が終わってから昼食まで、紅葉の葉やどんぐり松ぼっくりなどそれぞれの団ごとに「秋を見つける」活動をしたり、息子たちのクイズ会に参加したりと、歓声をあげて芝生や公園を走り回っていた。天候に恵まれたのは幸いで、400人弱の参加した全員にとってすばらしい「城北フェスティバル」となった。
城北フェスティバル2005

日本の色

昔、確か司馬遼太郎氏がモンゴル紀行の中で、モンゴルの草原に咲く花の色が日本のものに比べてとても鮮やかなのに驚き、そういえば世界の他の国々でもそうだったなと日本の花の色が比較的地味なことに思いあたる。そしてそこから日本古来の色文化の根の深さについて語っていた(ような)のを読んだ記憶がある。わたし自身も、ヨーロッパの近代建築などはあんなにも大胆で鮮やかにも美しい配色や色使いをしているのに、日本人はどうして今でもこうくすんだ色使いしかできないのだろうと落胆していたこともあって、この話はとても印象に残ったのだ。

藍(あい)色に藤色、鶯(うぐいす)色、小豆(あずき)色、茜(あかね)色、萌葱(もえぎ)色、江戸紫に生成色、群青にウコンなどなど。自然の色と言うべきか、日本の色名をあげてみるとみな確かにどこか渋くてくすんでいるようだ。昔は、それらを染めたりした原料のせいかと思ったりもしたが、司馬氏の文章を読んでから少し違う見方をするようになった。咲く花の色から違うとすればこれはしかたがないというか、美的感覚の質が違っても当然なのかもしれないと思ったのだ。伝統とは何かというと大げさだが、人間の歴史以前の自然の特性から受けついできたようなものなら、やはりそれなりに大事にしていくべきかと考えたりもする。

タカラヅカ

今日は前々から書こうと思っていた外来の花の話題。
写真は右下のが「ランタナ」で後ろの大きな写真は「デュランタ・タカラヅカ」。確かともにメキシコだったか中南米のもの。ランタナは小さな花で形はそっけないが、どこかのお菓子のようにいろどりが豊富で鮮やか。デュランタの方は「タカラヅカ」の異名にふさわしく、花はやはり小さいものの可憐でしかも付方が大ぶり。華麗でとてもはなやかな感じがする(写真はよくないが)。そして、ともになんと春から秋までとにかくずっと花があるということなので驚く。原産地は年中暖かい気候なのだろう。

いつも植栽工事をやってもらっている山中三方園の近くにあるポット入り草花などの卸下(とても大きな店)で名前などを教えてもらったが、こういうのが日本でも普通に育つことができてはやるというのは、これも地球温暖化の一つの表れかと思ったりした。

そういえば、東京では新築ビルに義務付けられた屋上緑化のために、メンテナンスにほとんど手がかからないということで近年出回っているマンネングサも、確かメキシコ原産のものだ。琵琶湖のブルーギルやペットで輸入された外来の動物が野生化して問題になっているが、こういう植物はどうなのだろう。多分天敵はいないので、野生化して山野で増えるというようなことはないのかしらとちょっと心配したりもする。輸入花-1

雑感

先週後半から、自宅の改修工事が始まり、事務所に出る前に打ち合わせたり、大学の帰りに立ち寄って様子を見たりと、何となくきぜわしい日々。小さな工事だが、その場所の片付けで週末をつぶし、住みながらというのはやはり大変だなとあらためて思った次第(まあ一番大変なのは家内だが)。古い家なので解体の日はほこりだらけだった。

さて今日は「紀宮さまと黒田慶樹さん」の結婚式の記事が華々しく新聞やWEBに出ている。降嫁というわけだし、お二人とも歓声がわくような美男美女ではなく、加えてつつましいお人柄なので、かえって日本中が静かに祝福しているような感じ。なかなか好ましい雰囲気で、こういう記事は普段読みとばすわたしも(詳しくはやっぱり読まないけれど)今日はちょっと幸せのおすそ分けをいただいた気分でいる。

講師の仕事

先週末は、久しぶりに少しのんびりでき、今週は先週までとうって変わって淡々として仕事をする日々が続く。大学は帝塚山は休講だが、金曜日の武庫川女子大学は、課題住宅の全体平面図のエスキース提出日としてある。どんなものが出てくるか楽しみだ。

と言っても毎週見てきているのである程度予想はつくが、今年は奇をてらったようなのではない、ある意味で本格的な意欲作がいつもより多かったような気がする。まあ多かれ少なかれ、こういう時期(骨子が固まる前)には、毎年こういう期待感をすこぶる持ってしまうのは確かだが・・・。

そして毎年一つか多くて数点だが、必ずこちらをも思わずうならせるような所をもったものが出てくる。こういう経験は確かに日常的な仕事ではできない。講義でもできないだろうし、演習の醍醐味と言ってよいかもしれない。一所懸命に焚きつけたかいがあったと思う瞬間。だから最初に「楽しみ」と書いたわけで、Feeは少なく本業の設計で忙しくても、やっていきたいと思う所以です。

ファンタジー

先週、先々週とちょっとあわただしい日々が続いたが、大きな仕事が一段落し、それぞれ別々の断片的なものが多かったので精神的には大分楽になった。ただ、夏ごろまでの長くハードな日々の疲れがどっと出てきた感じで、テンションはあまり上がらない。

読書の秋でもあり、たしかに最近は寝る前の読書が心地よい季節になった。でもこういう状況で堅い本や新しい読書には取り組む気にもなれず、昨日読み終えたのは久しぶりに図書館で借りてきた藤沢周平氏の「漆の実のみのる国」。彼は最近ちょっとしたブームの観もあるが、ふとしたきっかけから、そうなる2、3年前にある程度まとめて読んでみたことがあった。

そういえばもう10年以上前からなぜか江戸時代の小説を好んで読むようになっている。若いときの自分を思うと不思議な感じさえするくらい。ではなぜ好むようになったかと考えると、わたしにとっては多分上質のファンタジー(おとなの童話とでも訳すべきか)だからだと思う。

それをファンタジーの一種だと思うのは、一つには現代とは制度や社会の風景がまったくと言ってよいほど異なるから。それなのに、細かく具体的なことまでかなり正確に分かっていて、それを駆使して作家は、内容のイメージを比較的容易にくっきりと作りあげることができる。

イメージの豊かさや語り口は別として、現実とは世界がまったく異なり、しかもなおその構成が明確かつ緻密であるということは、上質のファンタジーにとってなくてはならぬ大事なことだろう。だから作家が自分自身のイマジネーションのみでかなりの部分を作ってしまわなければならないような現代的なファンタジーと比べると、物語のできとしては、完成度や成熟度において数段勝っていてもあまり不思議はないということか。

まあただ、ファンタジーを好んで読むというのは「癒し」を求めているわけだろうが、それが江戸時代というのは・・・考えてみるとちょっと複雑な気分もあります。