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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

2006年1月

今日で2006年の12分の1、1月が終わる。わたしにとって本当に激動の月であり、今年の始まりとなった。父は享年86歳。満84歳でこの世を去った。あまりに突然のできごとだった。

朝、わたしを残し先に2階へ上がってから少し休んでその日も近くの医院へひとりで出かけた。タクシーは使ったものの自力で歩いて行った。帰宅後昼食をとり、もらってきた薬は昼から飲んでよいのかと医院に電話で問い合わせていたそうだ。それから階段を登って2階の自分の部屋へ戻り、今度は本当に深くゆっくりと休んだのだ・・・永遠の世界の中で。

ようやくと言ってよいのかもしれない。背負っていたであろう重い肩の荷を全て降ろして、一人の人間が「完成」し、もはや誰であれ足すことも引くこともできない「完全」な姿になった瞬間だったと思う。

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父死す

前回書き終えてから分かったのだが、その日わたしの父が亡くなった。その朝はたまたま一緒に食事し、最近体調を崩していたので様子を聞くと、まだあまりよくないとのことだった。でも朝食はきちんと食べていつもの薬も飲み、先に2階へ上がって行った。そしてそれがわたしにとっては最後の接触になった。今のところあとは言葉にならない・・・。

だから次に書けるまでまたしばらく間隔があいてしまうだろう。

プルーフ・オブ・マイ・ライフ

少し間隔があいてしまった。休み明けが急に忙しくて寒さもあり体調を崩してしまったようだ。仕事を休んだわけではないのだが、ここ数日気分ものらない。工期が厳しくかなり詰めて図面を仕上げた仕事が、銀行融資の関係で延期になりそうということで、少し拍子抜けしたのも影響しているか。

というようなことで、先日は仕事で大津へ行った帰りに京都へ寄り、本当に久しぶりにぶらりと映画館へ入った。ビデオはともかく劇場で見るのは何年ぶりだろう。前に見たのはリュック・ベッソン監督の「ジャンヌ・ダルク」だったから大分前のことだ。

いくつか映画館を見て回り、結局「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」というのを見た。後半、観客への見せ方の事情だけから、事実を隠してはらはらさせるという筋書きは少し気に食わなかったが、映画としてはとても面白く、数日余韻が残ったほどだった。

カメラ技術もあるが、女優のグウィネス・バルトロウが本当にすばらしかったのが印象的。あと言い方が難しいが、男優の存在がまるで昔の西部劇にでも出てくる女優のようだと映画館を出てから思った。俳優としての彼自身は素敵だったとは思うのだが。

仕事の始まり

正月、3日に仕事で動いたせいもあってそのあと休み直し、6日が初出だったが連休もあって今週からが本当の仕事の始まりだった。おかげで初っ端から極端に忙しい日々が続く。挨拶廻りの来客も多く、電話アポイントを取ってきた人には悪いが遠慮していただいたりもした。

合間をぬって今日は昼から近くの眼科医の先生を訪ねた。本来の仕事ではないが、購入された完成間近のマンションでオプションを一杯提案されたが分からないので相談に乗ってほしいとのこと。光触媒、浄水器、内装の調湿タイル、石材やフローリングの汚れ止めコーティング塗料、防犯ガラスなどなど、確かにこれでは素人の人では分からないだろうし迷って当然だ。でもはやりのものや気を引くポイントを押さえたものばかりが並んでいて、さすがだなとわたしも感心したくらい。しばらく話しや説明をして事務所に戻ったが、結局来月の内覧会にもおつきあいすることになった。

建築家の倫理:姉歯問題から-11

さて、このあたり調べて書いていないのでいいかげんだが、そういう近代的自我の確立とProfessionの確立とは並行したというかたぶん連動したできごとであったのではないだろうかと思う。

そしてここからは批判覚悟で書くが、Professionとはそういう近代的で独立した個人に対して、何かを「預る」、例えば医師ならば「命」だろうし、弁護士ならば「倫理(あるいは「権利」が正解か)」ということになるかもしれないが、いずれにせよクライアントからすれば「信頼してまかせる」、受けるほうは「預らせていただく」というような、根本をみすえると契約書には言葉で書きようもない、本当に重大な委託の契約が暗黙のうちに存在してしまうような職務なのではないだろうか。そしてまた確かにそういう前提がなければ十分には遂行できないような職務だといってもよいだろう。

どうやらProfessionとして特別に区別される理由はこのあたりにこそあるわけで、これはその責任の重さとなると明らかに人間の背負える範囲をはるかに超えてしまっていると思う。だからProfessionという言葉の意味するのは、それを職務とする者には、神に誓って責任を大きく分担してもらうことで、ようやくその職務に対して自由にふるまえるほどの深く重い責任があり、それに対する十全な理解が必要なのだということではないだろうか。

***
何とか多少は結論じみたところへたどりつけたようでほっとしている。正月休みも明けて、今日からはまた仕事に追われる日々に戻るわけで、何とかぎりぎり間に合ったようだ。実はこの最後の部分は昨日ようやく考えついたばかり。それまでは話をどう着地させるか正直かなり気をもんでいたのだった。「細かいところをほじくるだけ」と書いたところで、意外にも大きな魚を釣り上げたのかどうか。資料を積み上げて書いたわけでもなく、走り書きのスケッチとしか言いようがないものだ。とくに最後の方は舌足らずで思いつきの羅列、宿題だらけになってしまった。これからは自分が牛になったつもりで反芻しながら考えていくことにさせてもらい、この問題についてはとりあえずここで一度おきたいと思う。

建築家の倫理:姉歯問題から-10

ただ、やっかいなのはそこに書かれた「禁欲的合理主義」はいかにも強力で鮮やかだが、残念ながらその前に一応「神」をおかないと成り立たないということだ。そしてそれはもちろん八百万の神ではなくて砂漠出身のかなり孤独な姿をした「神」で、われわれ日本人などはそのままではまったく「救済」の対象にもならないらしい。

M・ウェーバーの本を読んだときに思ったのは、そういう西洋の思想がまだ入らない江戸時代の商人たちのことで、すでに成熟した形の近代的資本主義が日本にはあったとも言われる。当時はやった浄瑠璃などといってもまったく知らないのでここからは司馬遼太郎氏の本からの受売りでしかないが、近松のある心中物で主人公が、結局だまされることになる商売の同僚に対して「あいつも男をみがく奴」ともらすそのつぶやきを、当時存在した倫理の一つの証言のように司馬氏が語っていたのを覚えている。彼らが当時みがきにみがいた「男」とは、一体何だったんだろうか。

近代的資本主義と呼ばれるような経済システムが、都市に集まってきた余剰人口を塩でもむようにして洗いだし、集団の一部から意志と責任を持った個人へとみがきたて、きたえたというような過程は、西洋の厳格な神様なしでも確かに日本にはあったのだと思う。

(まあここで孤独な神の代わりに孔子を持ち出してもよいが、ほとんど議論にならず何より論理的な純度と厳しさでははるかにかなわないだろう。論語では「両端をたたいてつくす」というのが、大学時代に読んで今も時々思い出す章句だが(吉川幸次郎氏の読み)、そういう議論の極端をいましめるような節度はわたしも何とか最後まで保ちたいと思う。) ・・・続く

姉歯建築士-9

少し範囲を広げてみる。建築家も含めたProfession(職能)のところに戻ると、建築家をProfession(職能)の一つであるとした理由というか、そうなった資格のようなものが考えられるかもしれない。たとえばエリートとしての衿持のようなものの中に何か出てこないだろうかということだ。細かいところをほじくるだけのような気もするが、倫理一般となるともちろん私の手にはおえないわけで、また「建築家の倫理」というからには、一応建築家として(すでにProfessionまでは後退したが)独自のものが何かないのか一度は考えておきたいと思う。

ここでしばらく余談をはさみたい。
数年前にマックス・ウェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をようやく読んだ。若いときからいつか読みたいと思った本の一つだった。ただ、キリスト教となると日本的無神論者の私にとっては、プロテスタントとカトリックの違いくらいはいくらか見当つくが、プロテスタンティズムやカルヴィン主義などと言われても、高校の世界史で学んだレベルをあまり越えない知識しかない。禁欲的合理主義というのが多分その核心の価値観だが、まあ「価値観」として確かに自分も認めてみればそのまま「倫理」の一種ともなるようだ。

(余談にさらに余談をはさむ。これを書きかけてから、まだ事務所にあったその岩波文庫を手に取るとちょうどその横に同じ岩波文庫のアインシュタイン「相対性理論」があった。思えばこれを買ったときには大いに興奮して、この思想が自分のところへ届くのに100年近くかかったのだと日記にしるした覚えがある(まあ読後さっぱり分からなかったが)。本の表題の裏ページに1905の文字があり、そういえばとM・ウェーバーのを見ると1904-1905に執筆とある。2006年の冒頭なので書いておきたいと思うが、どちらも20世紀のしょっぱなのほぼ同じときに出て、いわばその世紀の決定的な書物にもなったわけで、いまや21世紀の冒頭にいる私としてはきっとまた今も、さらに新たな幕開けが始まっているのだろうと信じる気分になった次第。そしてまたわれわれの子供たちの活躍にも期待したい。) ・・・続く

姉歯建築士-8

では何を誓うのかということになるが建築家にとっては、ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスによって説かれた「美・用・強」という建築の三要素が手がかりになるかもしれない。その理想としては、みめうるわしく、必要な機能を満たして使い勝手もよく、十分な強度を持って安全ということになるだろうか。

でもこれでは「美」についてはともかく、機械などの性能と同じことで、設計者としては単に目的としての前提条件にすぎないだろう。姉歯氏はこんなところで踏み誤ったのではないわけで、これについては自分を十分な技術をもった確信犯として、まったくたじろぐことはなかっただろうと思う。そして彼が、多分今では決定的に踏み違えてしまったと感じているような「倫理」となると、もっとはるかに違うところを探さなくては見つからないのではないか。建築家という職能の中をいくらかき回しても出てこないだろうということだ。 ・・・続く

姉歯建築士-7

二つと書いたもう一つの要素は、政治的なものと言ってよいだろうか。前にも書いたが、「善い方」をめざして全体をコントロールしていくということだ。ただ言い方があいまいだし「政治的」というような言葉をわざわざ使うのは、その「善」の多様性と非情を思うからだ。政治の世界は冷徹と言われるが、それは手段を選ばない非情さのゆえで、歴史を見ているとそのパワーゲームのすさまじさには呆然となる。対象となるのはまあ手当たり次第で、文学や芸術はもちろん宗教でさえ手段として役に立つならばその餌食の例外にはなりえないし、「得」にならないと見れば遠慮なく切り捨てられていく。

まるで獰猛な怪物を見るようだが、むき出しにされた「私欲」とはそういうものなのかもしれない。昔、修行時代をすごした事務所の師から、「支払う金が自分のだったらと考えてみなさい。そうすれば図面や見積書に対してそんな甘い考えは出てこないはずだ。」と口すっぱく言われたことを思い出す。「善をめざす」と言葉で書くと大げさだが、その根源をたどると生物的本能に近いそういう個人的な利害の感覚(感情?)にまでつき当たるわけで、「私欲」をまったく無視して人のためにつくすというのは、つきつめて考えるとやはり人間にはありえないことではないかとあらためて思う。

古代の哲学者は、戦争に明け暮れて滅んでいく人間の不条理を嘆じて「人間は誰も善いことをしたいと思っているのは確かなのだ。ただ自分にとって本当に善いことが何かを見まちがってしまうのだ。」というようなことを言った。まあこれが哲学史上において人間は生まれつき善を求めているという「性善説」に分類されるのか、その反対の「性悪説」となるのかは知らないが、善の多様性と意外なほどの困難さは理解できると思う。

建築家の倫理としては、間口を広げすぎているという反論もあるかもしれない。ただ「倫理」というからには、簡単に建築家という職業(職能)に限定するわけにはいかないと思う。英語にProfessionという単語があって、カッコに書いた「職能」がこの訳語で、他の職業Occupationなどとは一応区別され、その「職能」の西洋的三点セットが弁護士、医師、建築家だ。動詞のprofessとは辞書では告白するという意味だが、頭が大文字になれば少し意味が重くなり「神に対して」というようなことになって、「発言する」ひいては「誓う」というような意味になるのだろう(神様は多分しゃべらないから対話にはならない)。・・・続く

明けまして

これを読んでいただいている皆様へ。

明けましておめでとうございます

どうか本年もよろしくお願いいたします


昨年家内のお母さんが亡くなったのでわたしも喪中とし、私的なつきあいの人々には欠礼のはがきを送ったが、印刷なのに慣れないせいかけっこう大変で時間切れ、結局、仕事上も年賀のはがきは失礼させてもらって寒中見舞いとさせていただくことにした次第です。

さて年も代わり、すべて一新ご和算でこれから新たにといきたいところだが、さすがにそうはいかない。今日は早々に昼から仕事の打ち合わせだった。姉歯のこともまだ途中で、われながらやっかいなことを書き出したものだと思っている次第ですが、いまさら後にはひけず、とりあえず書きかけていたことをこれに続いてUPしておきます。