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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

進々堂

まだ内容も曖昧な部分がありどうなっていくか分からないが、今度はパン屋さんの内装設計の仕事。わたしは初めてなので、とりあえず近辺のパン屋さんを見て回ったりした。だいたいわたしは専門のパン屋さんで買った経験があまりない。喫茶コーナーを持っているところも最近はよく見かけるが、なぜかほとんど入ったことはない。

そういえば、京都に進々堂という老舗のパン屋さんがある。今出川通り沿い京都大学の近くが喫茶をともなった本店・・・と書こうと思ってWEB検索してみると、いわゆる大量生産している進々堂(よく配送車を見かけた)と、この京大界隈のとは別のようだ。まあ、どちらの紹介にも「日本で初めてフランスパンを焼いた」とか書いてあるので、おそらく元々は同じなのだろう。相続時にでも揉めたのかしらと思ったりした。

さて京大界隈の進々堂は、店構え自体が老舗の格調。教わった先生から昔は教授とかしか入れなかったものだとも聞いた。もちろん店がいれなかったわけではなくて、学生などは敷居が高くて寄り付けなかったということだろう。

わたしの学生時代にはもちろん誰でも気軽に入れる店で、製図室での徹夜明けなど、よく朝七時の開店を待ちかねたものだ。熱いコーヒーを頼んで、コッペパンにシーチキンをはさんだもの(シーチキンはあまり好きじゃないのでかえってよく覚えている)もなぜかよく食べたが、絶品だと思ったのはクロワッサン!というか多分生まれて初めて進々堂でそれを食べた。冷たくない記憶があるので、あっためて出していたのだろうと思う。そのためパンと油が柔らかく、皮の部分が破片になって散るのが面倒だが、一気に食べるのがもったいないような気がしたものだ。

あとその家具には触れておきたい。人間国宝・黒田辰秋氏の仕事。在学中一度か二度、店の一画のテーブルとベンチのセットがまるごとなくなってしまっていることがあった。不審に思って尋ねると「展覧会出品のために貸し出しているのです」とのことだった。もちろん黒田氏が何者か、まだまったく知らなかったころのことだが、それを聞いてあらためて目の前のテーブルをながめた。よくできた家具はもしかすると建築より長生きするのかもしれないと思ったのは、そのときが初めてだった。

パン談義が進々堂で長くなってしまった。フランスパンについて書きたいと思って始めたのだが次回に送ります。

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新緑の柳

昨日、現場の帰りに近くの公園に立ち寄ると、やなぎ並木があって、ちょうど一斉に葉が芽吹いたところだった。日が落ちる寸前だったのであたりはすでにうす暗くてうまく写真がとれなかったが、何とも印象的な光景。淡い黄緑色の小さな点々がしだれた枝に無数にちりばめられて、せせらぎを落ちていく新緑の滝のしぶきのようだった。初々しい生まれたての生命の姿が、あまりに清々しくてまぶしく、しばらくは見とれてしまった。

今年は本当に忘れられないような「寒い冬」になったが、意外にも予報では開花は例年より早いらしい。行く時に環状線の車窓から桜ノ宮の景色をみたが、桜のつぼみはまだ固そうだった。でも間違いなく今年もまもなく春が来るのだ。
新緑の柳

忙中閑あり・・・

今日は定時で仕事を切り上げることにした。いつもならマイペースでだらだらと夜までやっているのだが、昼過ぎから3件の施主から散発的に電話が入り、それぞれの対応もしていかなくてはならず、ずっと緊張状態が続いた。おまけに一軒の現場の最終的な仕上げ決定の締切りを今日と約束しており昨日から必死になっていたので、あわせて本当にテンテコマイの状態になってしまったのだ。

さすがに最後の方は頭の切り替えが鈍くなっていると自分でも分かった。何とか仕上げリストもメーカーへの発注ぎりぎりの時間にはFAXを終え、ようやく一段落ついた午後6時過ぎには頭が茫々として、せんべいを片手にゆっくりお茶を飲みながら、しばらくは日向ぼっこの老人状態になってしまった。

事務所の仕事量からすると、こういうのは珍しい。改修工事の短期な仕事が重なったせいもあるが、午後はずっと綱渡りをしているような気分だった。若い頃ならそのスリルに興奮や高揚感もあっただろうがさすがに今はそこまでは・・・ない。まあこうやってブログに書いているのは、まだ少しはその余韻のようなものがあるからだろうが・・・。

Mさんの来訪

今日は夕方、前にいたスタッフのMさんが訪ねてきてくれた。昨日も来てくれたのだが、私が現場に行っていて出直してくれたのだ。

もう30歳を超えたつもりで話していたら、まだ29歳ですよと言われて驚いた。話してみると辞めてからまだちょうどまる4年しか経っていないのだった。その間彼女もそうだろうが、わたしも事務所も波乱万丈で、当時たまに顔を見せていた子どもたちも見違えているでしょうねと言われ、そういえば二人ともあれからちょうど第二次性徴期で劇的に変貌していく時期だったと感慨深かった。そしてそれはわたし自身にとってはあまりに密度の濃い年月で、たった4年と聞いてはじめは即座に信じがたかったのは事実だ。

彼女は昨秋、めでたく結婚して甘い新婚生活のまっただなか。幸せの渦中にいる人を見るのはそれだけでも本当にうれしいものだが、事務所の最初のスタッフでもあり話はつきない。仕事は続いているので時間を気にしつつも、あっという間に1時間半を過ぎてしまった。

彼女ももうすぐ30歳のはずだが、自分のことを考えるとそのあたりからがいわゆる「人生」だったとあらためて思う。子育てや夫婦関係の構築(妥協?)などそれまでとは違って「他者」が否応無しに自分の中に土足で踏み込んできてかき回されるということだ。同時に自分も「他者」の中に足を踏み入れて、一緒に傷つき、喜び、笑って、あきれて、悲しむというようなことがきっと始まったのだろうと思う。

ただそれはもはやそう簡単には終わらないということは言っておきたい。子どもができればあきれるようなスピードで成長し、また夫婦の関係も甘い霧が晴れてくれば、細心の注意をはらってこそようやく保てるような繊細な部分と微妙なバランスが底の岩根にあることを知るだろう。まあわたしもまだまだその渦中にあるということはここで白状しておかなければならないが・・・。Mさんのこれからの人生に幸あれ!!!

「作家たちのモダニズム」

コメントで少し書いたので、ついでといっては失礼だが、この機会に紹介しておきたい。本のタイトルは表題の通りだが、「14 Architects/建築・インテリアとその背景」という副題がついている。前に書いた「近代日本の作家たち」の姉妹本と言ってよいだろう。同じ出版社で、同じように主要著者が武庫川女子大学の黒田助教授。2003年2月の発刊だからちょうど二年ほど前になる。

内容も同じようにまあ初心者向けだが、こちらで取り上げられているのは欧米の人ばかりで、一読すれば近代建築運動の概要を知ることができるというような具合になっている。大学の教科書で使われていたりするようなので、建築系の学生なら知っている人もいるだろう。

さて、近代建築の運動が、過去を断ち切るためにいかに革命的で、同時に、原色が荒れ狂うあきれるほど多彩なものであったことを、とくに若い人たちにはもう一度再発見してほしいものだと本当に思う。つまりは現代の淡彩色になってしまった建築デザインの世界などはそのしぼんでしまった末裔にすぎないことを把握して、あの熱いマグマから新たに汲みあげてくるべきものを見つけてほしいということだ。

そしてまた、もちろん建築の革命は一部分であって、その背景には人間の在り方にまで深刻な影響を及ぼしたような、大きくて劇的な精神的変化がこの時代(1900年の前後50年くらいか)にあったということも、ぜひ同時に知っておいてほしい。

中心あたりにいるのは誰だろう。マルクス、フロイト、アインシュタイン、絵画ではセザンヌ、ピカソ、あとは知らない・・・。まあ広い知識もないのにこういうのはあまり書くべきではないかもしれない。ただしもちろん建築なら分かる、ル・コルビュジェとミース・ファン・デル・ローエの二人だろう(もちろん彼らだけでやったわけでは毛頭ない。彼らは果実を見事に摘み取ったということだが)。

そして彼らが地球を一周したとするならば、それ以後われわれは今までいったい何キロ進んだかというくらいの違いがあるというほかない。以後は技術的な成熟の期間であったと言えばそれまでだし、その営為を否定するつもりもないが、もはやバリエーションの建築にはあきあきしたというのが批評家としての率直な私の感想だ。ただし私も創作家なのだからこれはまた何をかいわんや・・・。

プーシキン美術館展

昨日は夕方から中ノ島の国立国際美術館へ行ってきた。ロシアの「プーシキン美術館展」。絵を見に行くのは久しぶりのことだ。印象派のものがたくさん来ているということで、行ってみるとまさにその通り、たくさんのなつかしい人たちに久しぶりに出会い、ねんごろに挨拶を交わしてきたような気分が残っている。

一番印象に残ったのは、好みもあるがやはりセザンヌ、マチス、ピカソだろうか。ゴッホも一点だけあったのには少し驚かされた。知らないものだったが小品ではなく、なかなかすさまじい作品で本当にすばらしかった。

マチスは金魚の大作があり、これがこの展覧会の最大の目玉のようだが、ここだけはまったく同じ解説板が両脇に貼ってあった。予想されたような混んでいる状態が頭に思い浮かんで少し苦笑してしまったが、まあ期間の終わり近くになれば、たしかに必要になるのかもしれない。

セザンヌも2点だったがなかなかよいものが来ていた。とくにサント・ヴィクトワール山の風景はなんとも懐かしくてすばらしく、もはや観賞などしているようなゆとりはこちらにはなかった。もう一枚はキュビズムの水路を開いただろうと思わせるような象徴的なもので、油絵というよりも、緑色の諧調の中に天上の音楽が聴こえてくるような作品だ。

ピカソも油彩系の絵画は二点で、キュビズムを達成したあとの「女王」は本当に堂々としていて、こちらをさすがとうならせるような迫力あるものだった。あとモネの睡蓮もあり、ゴーギャンは今まであまりまとめて見たことがないので、独特の幻想的な世界が新鮮でとても面白かった。

一時間半ほどかけてゆっくりと見て回ったが、解説板を読んでいて思ったことは、いわゆる第一回の印象派展が1874年で、ピカソのあのメルクマールな作品「アヴィニヨンの娘たち」(これはもちろん来ていない)が確か1907年だが、ピカソの小品のエッチングの解説に、キュビズムの「分析的解体のほぼ最後の段階」と書いてあって、それが1912年だった。つまりはたった38年ほどでこういう変化が起こってしまったわけで、その短さには驚ろかされた。ということは、またそういう過程が第一次大戦の前にはほぼ済んでしまっていたということになり、それにも驚いた。

前にここで、1900年代一桁で アインシュタインの相対性理論と、M.ウェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」がほぼ同時期に刊行されていたことを書いたが、当時絵画の世界ではこういうことが起こっていたのだった。

建築家山口文象氏-2

さて山口文象氏のことだが、氏は製図工の出身で、東大出の官僚建築家たちとは食堂やトイレまで別というような境遇の中から頭角を現し、デザイナーの一員として認められた。以後大正時代の近代建築運動の中でも活躍し、ついには欧州留学まで果たす。まあ詳しいことは本書を読んでもらいたい。私も本書で初めて知ったことがいくつもあった。その一つがバウハウス初代校長だったW.グロピウスのもとで学んだということで、グロピウスはアメリカに渡ってからTACという共同設計事務所(The Architects Collaborative)をつくり、山口氏は帰国してのちにやはりRIAという同じような組織体を作ったが、そのことがとても興味深かったのだ。

組織体としての設計事務所というのは、理想としてはよく分かるし私も若いときに夢想したことがあるが、現実には建築デザインの世界においてはなかなか難しいことだと言っていいだろう。ただし、もちろんこれはデザインの質を問題にしてのことだ。前に書いた建築の3要素:美・用・強の後者二つに重心をおくならばそれほど意味のない議論ということになるかもしれない。デザインも無難で技術的に成熟した建築を設計できる組織事務所は確かにいくらもあるし、一般的にはそれで十分かもしれないからだ。

ただ、デザインの才にあふれた山口氏自身もそのあたりの難しさは実感していたようで、そのことは本書にもある。また彼の理想をこめたRIAも、彼を含めた初代のデザイナーたちがいなくなると先端的なデザイン事務所というところからはほぼ完全に遠ざかっていった。デザインの質(美)ということに重点を置くとすれば、やはり個人の力が強烈に大きいと言うほかない。

たとえばギリシアのあのパルテノンの建設にはフィディアスという彫刻家が君臨し、その下に建築家イクティノスともう一人(名を忘れた)が従った。ルネサンスの幕を切って落としたフィレンツェのドォーモは建築家ブルネレスキの作品だし、ローマのバチカンのドォーモはやはり彫刻家ミケランジェロのものだ。日本では伝統建築の閾をこえた東大寺南大門や浄土寺には重源という高僧がいたし、妙喜庵待庵には千利休、桂離宮には小堀遠州の名前が残っている。

何を言いたいかというと、天才的なデザイナーとして多分うすうすにはその矛盾というか困難さを知りながらも、思想とデザインの道を両方捨てずに頑張りぬいた山口氏の営為には、頭が下がる思いがするということだ。違う言葉で言えばこういうような引き裂かれ方に才能と全人格をかけてつっこんだような人は、文学では知っているが少なくとも日本の建築界では稀有ではないかと思う。

キーワードは共同体という言葉だろうか。コミュニティの訳とすれば、その言葉がある時代にどんなに理想的で豊かな力をもっていたか、わたしもはるかに大きな感慨とともに思い出す。マルクスのとなえた共産主義の「共」だ。

建築家山口文象氏-1

前に書いた「近代日本の作家たち」について、まああまり批評など書けるがらでもないが、建築家山口文象氏がとりあげられていてとても印象的だったので書いてみたい。黒田先生の視野の広さのおかげだが、よく取り上げてもらったと思った。

実は山口文象氏は、私の大学時代に一度京大で講演会をされてそれに行ったことがある。年譜を見ると亡くなられる少し前になる。すでに高齢でも語り口はいわゆる老人風のものではなかったが、やはり年輪を重ねた人の抑えた言い回しだったと記憶している。建築をかじりはじめたばかりの当時はどういう人かあまり知らなかったが、今となってみれば声を聞き顔を拝見できただけでも光栄だったと思う。

よんだのは、確か略称「関建連」という関西の大学の建築学科学生を対象とした組織だった。私も少し参加し、あとで分かってきたが民青系列に入る組織だったといってよいと思う。民青といっても今の若い人には分からないかもしれないし、まだあるのかもよく知らないが、共産党(京都はとくに強い)系の青年政治組織だ。

まあ多分今では共産党というと思想と組織が際立ちすぎ、それだけである色に染められてしまうかもしれない。でも少なくとも私の学生時代あたりまではその翼は左翼系リベラルという範疇においても大きな部分を覆っていたと思う。そしてそういう素地を共有している人として京大では西山卯三教授という巨人がいた。庶民の住まいに踏み込んでその具体像を詳細に調べあげ、その結果食う所と寝所は少なくとも分けねばという「食寝分離」論をはじめ、今のマンションでは当たり前の「n LDK」という表現提示にまでつながっていき、広い領域で大きな足跡を残された偉大な先生だ。

わたしは専門課程に入ってからはデザインを志向したので、西山研系列とは離れたが、今でもそのくびきのようなものは引きずっていると思う。戦災の荒廃も含め落ちてしまったどん底の貧しいところにいることで、かえって清新に獰猛なる「原日本人」の気力を奮い立たせていった思想的英雄の一人でもあっただろうか。

さて、今の若い人でマルクスの「資本論」を読もうと思う人はどれだけいるだろうか。まあわたしも2巻まで読んでやめてしまったので大したことを言う資格はないが、思想の是非はともかく、そういう景色が、今では専門をのぞく一般の若い人にまったく見えなくなってしまったようなのは残念なことだと思っている。マスコミでは「勝ち組 負け組」の議論がかまびすしいが、そういう人権と経済的な平等を叫ぶなら、その原点となった古典や、日本でもそれが力を持った時代の率直で真摯、素朴だがヒューマニズムにあふれていた言論に対してもう少し光があたってくれたらと思う。

さて資本論第3巻は1,2巻の思考をまとめてあるので3巻さえ読めば大体分かるということを解説書で読んでかえって3巻は読む気がしなくなったのだが、この1、2巻までの読書は私にとってはなかなかすさまじい経験だった。とにかく延々と当時のヨーロッパの貧民や低い地位におかれた労働者たちの悲惨な事例が、次から次へとこれでもかという感じで綴られていた。まあ、これは自分が当時少し特殊な状況にいたからこそ読めたわけで、そうでなければとても忍耐が続かなかったかもしれないと今では思う。あの建築空間としても有名な大英博物館図書室の円蓋の下で、マルクスは没頭してこんなことをひたすら探し、考えては書いていたのだと読みながら思ったりした。そしてそれはちょうどわたしが30歳の頃のことだった。

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書こうと思った山口文象氏のことからは完全に話しがそれてしまった。まあ順に書いていこうと思うとこうなってしまったわけで、本題は続きということに。

照明 その2

ライズの主宰者 岡幸男さんとは、大阪で勤めていたころからのご縁。わたしも住宅の照明程度なら自分でやるが、照度の要求が明確なオフィスや、さらに過酷な条件のある店舗などだともちろんのこと、特注で作る場合があれば組んでやらせていただくことも多い。(ただ言っておかねばならないのは、私の場合ライズにとっては仕事のヴォリュームが小さすぎ、いつも半分ボランティア状態になってしまうので内心は心苦しいのだが、岡さんの笑顔と好意にかまけてついつい頼んでしまうのだ。)

確かに照明デザインはなかなかむずかしい。日中の照度は人工照明のとは桁が違うくらい明るいのに、それにやすやすとついていける驚異的(とも思えるよう)な人間の眼があるからだ。人工照明でどんなに明るすぎるといっても太陽光にくらべればまだまだクラスが一つ下の状態にすぎなくて、他とのバランスはあるにせよそれだけで眼がつぶれるようなことなどあるわけもない。

まあだからかえって難しいのだが、光のデザインは空間デザインの大きくて重要な要素の一つというのは確かなことだと思う。わたしの場合、普通の住宅だとあまり劇的なことは、考えてはみても結局やらないことが多いが、これは住まい手の個性にもよるし、人工照明だと思い通りにできすぎるというのもある。建築家としてはやはり日中の太陽光で勝負したいというのが正直なところなのだ。

照明

月曜日は大津の現場に夕方から出向いた。今回は、時々お手伝いをお願いしている大阪の照明デザイン事務所「ライズ」のスタッフT君も一緒。学習塾で、予算も結局ぎりぎりまで落としたので、蛍光灯が並ぶだけで活躍の機会があまりないようなことになったと思っていたが、とりあえず現場の鈴木電気の人と顔合わせに来てもらった。打ち合わせの途中で施主から電話。先日渡した照明計画図についてだった。既存の教室と比べて台数が少ないのではないかという指摘。かなり明るいめでないと子供はすぐ疲れるからとは前に聞いていた。

T君によれば同じような蛍光灯でも高力率のものとなると普通の40Wのものと比べて、32Wでも照度は1.5倍くらいあるとのこと。ただ当初は全て高力率のものだったが、予算調整の時点で鈴木電気の提案で普通のものもかなり混ぜたりしたので、電話での即答は無理だと思い、再度きちんと検討しなおすことで了解を得た。

デザインや機能だけで決めることができれば話は単純なのだが、そこにお金がからんでくると、カタログでの定価はそれほど変わらなくとも値引率がぜんぜん違ったりしてややこしい。わたしも住宅の照明ならある程度慣れていて検討がつくが、こういうオフィス系の照明となると自分だけでやった経験は少なくて、話がこのあたりまでなるともうお手上げの状態。翌日、照度計算を再度してもらうことにして現場を後にする。

T君と一緒に駅へ戻る途中に別の学習塾があって、ちょうど暗くなってきていたので窓から中の教室の様子を見ながら相談した。やはり意外なくらい明るくできているようだ。原設計では高力率のものでさらに反射板付を使っていたので十分だったそうだが、予算調整も含めて再度計画をしなおしてくれることになった。と突然、建物の脇から数人の若い先生方が走ってこられた。どうやら不審者と思われたらしい。公道にいたのだがこの時節柄確かに無理もないと思い、失礼を詫びてすぐに退散した。

満中陰

日曜日に父の満中陰の法要があった。つまりは四十九日ということで、これでもはや忌明けとなる。関西以外の人はあまり知らない言葉のようだが、こういう歴史が刷りこまれて手垢まみれになった言葉の常として音も少し発酵しており「まんちゅいん」と読む(異なる地域もあるかもしれない)。若い頃は耳で聞いてもまったく何のことやら分からず、その漢字表記が状の表書きなどでよく見る満中陰と知ったときには、漢字という表意文字のおかげで意味も何となく少し分かったような気になり、軽い感動があったのを覚えている。

寺は天王寺区の城南寺町というところで、大阪城から南に延びる上町台地の頂部にある。天に近いためでもあるまいが、あたりに高い建物が少ないせいか空がからりと明るい。このあたり一帯は地名の通り本当に寺ばかりの地域で、豊臣秀吉が大阪城を築いたときに市内に散らばっていたお寺を集めたと聞いたことがある。

本堂で法要を済ませてから外へ出て納骨の儀式。久しぶりに晴れあがった空の下でおだやかに読経を聞く。やわらかな風が絶え間なく吹いていて、あおられた線香が燃えていた。

3月

あっという間に3月になった。今月は満中陰が終わっても確定申告があり、ただでさえ毎年気ぜわしい月だ。まだ父のことの後始末も残っていて出ることが多く、今日は久しぶりに終日事務所ですごす。でも雑誌掲載用の資料をそろえたり、コメントも書かねばならずなかなかゆっくりと本業に戻れない(合間にこなしてはいるが)。そろそろ新しい計画にも取り組んでいきたいのだが・・・。