松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

センダンの花

今日、教えている帝塚山大学のキャンパスで撮った写真。中央の広場脇にたくさん植わっているセンダンの花。今年はあきらめたと先日書いたばかりだが、最初にこれを見たのはもう先々週のことだった。そのときも先週も携帯電話のカメラで撮って失敗したので、もう終わりだろうと思ってあきらめたのだが、今日行ったらまだ咲いていて、さらに花が開いていた。花期が意外と長いのだ。そして思っていたよりもずっとしっかりして豊かな感じがする花房だったのも予想外。もっと繊細で目立たず、さりげない花かと思っていたのだが。

今日は汗ばむくらいの陽気だったが、ちょうどデジカメを持っていたのでそれで撮った写真。階段下に植わっているものの花はちょうど目の前だったので、顔を近づけてみたら甘酸っぱい香りがした。でもとくに「独特の」というような香りではなかった。やっぱり鼻が悪いのかもしれない。WEBで探ると南方系の樹木だそうで、これも意外だったが、言われてみるとそうかなと思うところもある。まあだから、熊楠氏のいた和歌山県などの暖地だと居心地がよいのだろう。
センダンの花-1

センダンの花-2

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春もたけなわ

徐々に春も深まってきたが、今日もさわやかな天気。毎年このころになると光が本当に美しいと思う。これは初めてそう感じたときのことをなぜか鮮明に覚えていて、確か学部を卒業して大学院に入ったころのことだった。建築学科のコンクリート打放しの建物の脇にある通用口を出たところで思わずつぶやいた言葉を、一緒にいた研究室の先輩Yさんに冷やかされたのだ。たしか狭い通路脇にはヤマブキが咲いていたように思う。そのときの光景は、不思議なくらいはっきりと今も記憶に残っている。

さて花の続き。一枚目はエゴノキの花。エゴは樹形がとても美しく、葉も小さくて薄いので光のさえぎり方がやさしい。高原のさわやかを感じさせてくれる木だ。最近は人気も高くて公園などにもよく植わっている。これは自分が設計した住宅の道路際の駐車場奥に植えたもの。近所なので時々前を通り、一週間ほど前に、今年も咲いたかと思って近づいて撮った写真。
エゴの花

次は、先週末に撮ったニセアカシアの花。場所は西宮の山間の住宅地。外来種で、荒地にも強いので、土木工事で荒らしたところに砂防樹として植えられ、いまや山林にもかなり増えている。この写真も住宅の庭ではなくてまだ未開発の土地に咲いていたもの。でも増えすぎて在来種を駆逐するとかで最近は嫌われているようだ。近くの公園の入り口にも街路樹として大きいのがあったが、去年切られて別のものに植えかえられた。でもミツバチの蜜の対象として格好の花だそうで、養蜂家はこの花を求めて日本全国の樹林を巡っていく。去年のNHKの番組で取り上げられていた。葉を見るとマメ科だろうと分かる。正確には知らないが、根粒菌を持っていて窒素を固定できるのが強さの一因なのだろうか。
ニセアカシアの花

あと、センダンの花を最近よく見るので、その写真を載せようと思っていたのだが、失敗続きで今年はあきらめることにした。前から一度見たいと思っていた花だったが、ようやく今年初めて目にすることができたのにちょっと残念。「センダンは双葉よりかんばし」ということわざで有名だが、これはセンダンではなくて白檀のことらしい。ただ、ほのかだが独特の幻想的な香りがあるとどこかで読んだ記憶があるのだが、鼻が悪いのかよく分からなかった。自分の記憶の中では、昔勤めていたときに、ある住宅の前庭に大きなのを一本植えたのと、数年前、和歌山の南方熊楠氏の旧居を訪ねたとき、確か庭に一等大きいのがあって、氏が生前愛した樹だったというのを聞いて覚えている。

藤の花

巷はゴールデンウィーク突入のようだが、こちらは仕事が立てこんできていて、朝から事務所に出てきた。とりあえず一仕事を片付けてほっとしているところ。さっきの昼食のときにまた裏の公園を歩いて、今日は藤棚のところへ行ってみた。この前そろそろかと書いたが、何とすでにもう終わりかけだった。残念だったが、藤の花には自分にとってとても印象深い詩句がいくつかあるので、代わりにそれについて書いてみます。

まずは芭蕉の句。

草臥(くたび)れて 宿かるころや 藤の花

これはシンプルに藤の花を詠んだものとして、もっとも好きなもの。というか、自分にとっては俳句の中でもとびきりの句。さすがは芭蕉翁で、つまらぬ解説など不要か。


つづいては、正岡子規。

瓶(へい)にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり

不治の病でずっと寝たきりだった子規の歌。亡くなる前年のものだそうだ。見えやすいようにと畳の上に下ろされた花瓶を、水平な視線で寝床からじっと見つめている。これを思い出すといつも、病床の子規のあえぐようなやるせなさと悲しみの深さに貫かれて、本当に息がつまりそうになる。これは書くのがちょっと気恥ずかしいが、最後の「けり」の詠嘆の鋭さと深さは、自分にとってはたまらないくらいのものだ。しかし詠まれた内容だけとると何とも些細でつまらないような情景なのに、それがどうしてこんな感情を呼びおこすのか本当に不思議。

藤とは関係ないが、このまま終われないような気持ちなので、彼のをもう一つ。今度は俳句。たしか亡くなる直前に詠まれた7つのうちの一つ。でもさっきのが本来の意味での絶唱ではなくて、こういうものであったことを本当によかったと思う。おかしいかもしれないが彼に感謝したいような気持ち。

糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 佛かな


最後は、坂本龍馬の歌。これは上の二つのような絶唱ではないかもしれないが、なぜか強く印象に残っている。

藤の花 今を盛りと咲きつれど 船いそがれて 見返りもせず

彼らしいさっそうとした歌だ。ただし彼は、それからも最後までずっと忙しく、そのまま去ってしまった。