
今日は朝から、大阪城の太陽の広場であったボーイスカウトの「災害支援プログラム」に参加した。大阪連盟の催しで大阪府下全域からかなりの人数が集まった。わたしは裏方の手伝いなので午前七時半に現地集合し、施設用のマーキーテントを張った。まあ、わが城北地区は、大阪城公園はテリトリーの一部と言ってもいい便利な場所なので、多分かなり主導的な役割を担ったのではないかと思う。参加しなかったが間伐材の丸太で簡易トイレを作った人たちもいた。途中、大阪連盟の会長をやっていただいている松下電器の会長(?相談役?)も激励の見回りに来られた。
10時までにはボーイ隊のスカウトたちも集まり、被災者用にたくさんのドーム型テントを色とりどりに張ってくれた。そしてそのあとで看護や救護施設、さっきのトイレなど大人たちが仕立てた緊急施設を見学に回ったそうだ。そうだというのは、わたしは用事があって途中抜けさせてもらい、撤収の午後二時前に戻ってきただけ。
まあ南海地震の可能性や市内の活断層の存在から、いつ大地震があってこの前の神戸のようなことになっても不思議ではないのは確かだ。もしそれが現実になった場合、自分はそれどころでない可能性もあるが、こういう緊急用のテントや施設なら確かにボーイスカウト活動ではお手のもの。阪神大震災以来、公の機関でも訓練やプログラムが整備されてきていると思うし、ボランティアというところで、組織としての体制は弱いと思うが、一度こういう催しをやっておけば、いざというときの動きにかなり差が出るのではないかと思う。
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思えばあの「阪神大震災」は、勤めていた事務所を前年末でやめ、少し休んでから自分の事務所を構えようかという矢先の1月17日だったから、本当に忘れられないできごとになった。翌日だったかとりあえず知人や師匠の住む西宮へ日帰りで様子を見に行き、三日目か四日目くらいに大阪天保山から船に乗って神戸港へ渡った。確か神戸市役所に電話したら、「食べるものも寝るところも保証できませんが、それでもよかったら来てください」と言われ、リュックにおにぎりや着替え、寝袋などを詰めてフェリーに乗り込んだ。
神戸港に着いてからは、きりがなくてとてもここに書けるようなものではないので省くが、高層の市役所の最上階の展望室で三泊した。当初はまったく誰も使っておらず、真っ暗のなか床に寝袋で寝たが、だんだん人が増え最上階まで仕事スペースに変貌してきたこともあり、いったん帰ることにした。最後の四日目は、やっていた震災アドバイザーのような仕事で東部のコースを選び、当時大阪からもっとも西まで延びていた阪神電鉄の青木駅まで、ボランティアをやりながら歩いて帰った。
ようやくたどりついた青木駅で、阪神電車にうすぎたないジーパンにリュック姿で乗りこんだが、梅田に着き、JRに乗り換えて階段を登り、まだ明るい環状線のホームに出たときに突然感じた異様さと激しい違和感は本当にショックで、一生忘れられないだろう。ちょうど夕方の通勤時間帯で、アイロンのかかったネクタイと糊のきいたシャツを着こんだ普段のスーツ・コート姿のビジネスマンがごった返す、あまりにあたりまえで日常的な駅の風景だったからだ。今ここに立っている疲れて薄汚れた自分はいったい何なんだろうと思うと同時に、その中へ入ってまぎれてしまうことを、多分、自分自身のどこかで激しく拒否する気持ちがあったのだろうと思う。

10時までにはボーイ隊のスカウトたちも集まり、被災者用にたくさんのドーム型テントを色とりどりに張ってくれた。そしてそのあとで看護や救護施設、さっきのトイレなど大人たちが仕立てた緊急施設を見学に回ったそうだ。そうだというのは、わたしは用事があって途中抜けさせてもらい、撤収の午後二時前に戻ってきただけ。
まあ南海地震の可能性や市内の活断層の存在から、いつ大地震があってこの前の神戸のようなことになっても不思議ではないのは確かだ。もしそれが現実になった場合、自分はそれどころでない可能性もあるが、こういう緊急用のテントや施設なら確かにボーイスカウト活動ではお手のもの。阪神大震災以来、公の機関でも訓練やプログラムが整備されてきていると思うし、ボランティアというところで、組織としての体制は弱いと思うが、一度こういう催しをやっておけば、いざというときの動きにかなり差が出るのではないかと思う。
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思えばあの「阪神大震災」は、勤めていた事務所を前年末でやめ、少し休んでから自分の事務所を構えようかという矢先の1月17日だったから、本当に忘れられないできごとになった。翌日だったかとりあえず知人や師匠の住む西宮へ日帰りで様子を見に行き、三日目か四日目くらいに大阪天保山から船に乗って神戸港へ渡った。確か神戸市役所に電話したら、「食べるものも寝るところも保証できませんが、それでもよかったら来てください」と言われ、リュックにおにぎりや着替え、寝袋などを詰めてフェリーに乗り込んだ。
神戸港に着いてからは、きりがなくてとてもここに書けるようなものではないので省くが、高層の市役所の最上階の展望室で三泊した。当初はまったく誰も使っておらず、真っ暗のなか床に寝袋で寝たが、だんだん人が増え最上階まで仕事スペースに変貌してきたこともあり、いったん帰ることにした。最後の四日目は、やっていた震災アドバイザーのような仕事で東部のコースを選び、当時大阪からもっとも西まで延びていた阪神電鉄の青木駅まで、ボランティアをやりながら歩いて帰った。
ようやくたどりついた青木駅で、阪神電車にうすぎたないジーパンにリュック姿で乗りこんだが、梅田に着き、JRに乗り換えて階段を登り、まだ明るい環状線のホームに出たときに突然感じた異様さと激しい違和感は本当にショックで、一生忘れられないだろう。ちょうど夕方の通勤時間帯で、アイロンのかかったネクタイと糊のきいたシャツを着こんだ普段のスーツ・コート姿のビジネスマンがごった返す、あまりにあたりまえで日常的な駅の風景だったからだ。今ここに立っている疲れて薄汚れた自分はいったい何なんだろうと思うと同時に、その中へ入ってまぎれてしまうことを、多分、自分自身のどこかで激しく拒否する気持ちがあったのだろうと思う。

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