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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

西ノ京-3:薬師寺

西ノ京の続きを書こう。行ってからすでに二週間近くたってしまった。唐招提寺門前の手前で右に折れてさらに南下したところから。

この道の突き当たりが、今回のもう一つの目的地である薬師寺だ。歩いて5分くらいか、突き当たる少し手前から、左手は新しくできた玄奘三蔵院の境内で、右手には文化財や工事関係のプレハブが建っている薬師寺のゾーンに入った。右手の敷地は、数年前、講堂の新築工事の途中を見学させてもらったときに、ここにあるプレハブの工事事務所の中を見せてもらったことがある。二階に上ると、すでにその数年前に亡くなられていた故西岡常一棟梁の製図台が、在りし日のままで大事に保たれているのを見て感激した思い出がある。

さて、道の突き当りが旧境内の入口だ。入って左に折れたところで撮ったのが下の写真。あまり写真がよくないが、ムラサキシキブがたわわに実をつけて、アプローチの小道の両側にふんだんに植わっていた。あとで境内の中にもあったし、もしかしたら何か由緒でもあるのかもしれない。実際に紫式部が訪れたとか、源氏物語に出てきたとか・・・。左の白いのも同種のものでシロシキブ。
ムラサキシキブとシロシキブ

若いときにも唐招提寺のついでに(失礼!)よく来たが、その頃は玄奘三蔵院はもちろんなかったし、旧境内にも多分コンクリート造の宝物殿はすでにあったと思うが、あとはたしか東塔と東院堂しかなかったから本当にその変わり方は劇的と言ってよいだろう・・・いや違う。いま思い出したがたしかに金堂はあったはずだ。本尊の薬師三尊像や堂内の景色をはっきりと覚えている。またその外の基壇の上から左手に眺めた東院堂のりりしい姿も。

でも目の前の金堂はどう見ても復興された新築の建物だ。いま薬師寺のHPを調べると、どうやら豊臣時代にできた仮堂があったそうで、これの建替えから、かの高田好胤師による昭和の大伽藍復興が始まったのだそうだ。だからあの頃のもので残っているのは、やはり東塔と東院堂だけということになる。

下は東塔。今回初めて、しみじみと美しい塔だと思った。若い頃は、どこか建築という範疇からはずれているようで、正直よく分からないなと思っていたのだ。ちなみに小さい屋根は裳腰で、屋根としては3層で三重塔ということになる。
薬師寺東塔

前回来たときは講堂の工事中で、現場に大きな覆い屋がかかり、境内の風景はあまり印象に残っていない。だから金堂を手始めに西塔、回廊、南の中門、講堂と次々に整備されて完成した現在の伽藍空間の全貌をゆっくり見るのはこれが初めてだ。まあようやく出来上がったその偉容には、昔を知っているだけにその変わりようもあって感嘆した。そしてまたここで古いのはまったく東塔だけだから、現代という時代になってから、よくぞここまで造り上げたものだと本当に思った。全貌は写らないので部分写真だが、手前が金堂で奥が講堂。右上は東塔の屋根(裳腰)。
薬師寺境内

伽藍空間に北から入って順路の表示に合わせて進んでいくと、講堂の左手(東側)を回ってさらに左の回廊の外へ道が続いている。そのまま行くと左手の緑の中にとつぜん東院堂が出てきたのでびっくりした。たしかに昔日の伽藍の外ではあったのだろうが、自分の好きな建築の一つだし、かの聖観音がましますところなので、一瞬、その冷遇をかなり残念に思った。さっき、そういえば東院堂はどこだっけという疑問が頭の片隅をよぎっていたのだった。

自分にとっては聖観音像についての紹介は、かの和辻哲郎氏の「古寺巡礼」の中でももっとも印象的な部分で、本当に古代ギリシア彫刻を思い起こさせるような西洋の古典的な格調と美しさがある。久しぶりに対面したが、昔の感動がそのまま甦ってきたのは、なにやらうれしかった。

大学を出て、東京へ就職してからも自分の美術熱はまだ続いており、上野の国立博物館へも何回も通ったが、常設の陳列でこの聖観音の模造が展示してあった。見るとやはりぜんぜん印象が違い、なんとも残念な感じがした記憶がある。

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絹谷幸二展

西ノ京の続きを書かないといけないのだが、別のものをはさみたい。日本画家と言ってよいのかどうか知らないが、大阪の難波高島屋で開かれている「絹谷幸二展」へ行ってきて、とてもすばらしかったので書いておきます。

じつは絹谷画伯は、大阪で勤めていたときに私にとっての最後の施主だった方で、仕事の経緯はもちろん氏の強烈な個性、ご家族のことなど思い出は数多い。でもここで書くべきようなことではないだろうし、作品自体にもあまりの関係ないことがらだろう。

わたしにとっては何らか芸術作品というべき存在に向き合うときには、そこにある「もの」と自分自身との「対決」と考えるような意識が若いときには強く、それが批評的になりすぎると、裁断しつくして、結果あとには何も残らないというようなことさえあった。まあ言葉に定着すれば、それもそれなりの意味はあるのだろうとは思う。でも30を過ぎたころ、自分の悪弊の一つだ思って深く反省し、同時に絵を見ることに対する興味も半減したが、三つ子の魂で、今でもやはりそういうのが自分の底流に多少はあるようだ。

こんなことまで書いたのは、本当に久しぶりに、絵画の展覧会を見て面白いと思ったからだ。色彩のすさまじい迫力とその躍動に圧倒されたと言ってよいだろう。若い時、印象派をはじめとする絵画の傑作に向き合ってみたいと思ってひたすら「巡礼」したころの経験とは違って、事前の情報があまりないまま、素手で向き合ってこんなに大きな感動があったのは本当に久しぶりのことだ。

もちろん以前にも画伯の絵を見たことがあったが、今回は予想に反して大作ばかりで、まずはそれに驚かされた。まあだらだらと書いても仕方がないので一つだけ。一番最後にあった「蒼に染まる想い(巡りくるとき)」だったろうか、これについての感想だけ書いておきたい。

絵そのものについては、単に「絵画」というような範疇を超えて、文学的と言ってもいいようなものが混じっており、独自に深化したコラージュとでも呼びたいような作品だ。だがここで書いておきたいと思ったのは、これが最後に飾ってあったのがとても印象的だったからだ(逆に最後にあったからこそ以下の感想をもったのかもしれない)。これまであまり現代の作家の展覧会を見たことがなく、昔の画家のせいぜい回顧展を見てきただけだから思うのかもしれないが、こういう風に作品自体であざやかなピリオドを打ったような展覧会は初めてで、本当に驚かされた。

ただその感想は、会場を出るときにはっきりしていたわけではなく、もやもやとした感情の塊として心にあり、今それを書こうと思ったのは、そのもやもやした気分に自分なりに一応の決着をつけておきたいと思ったからだ。

霧中と言おうか、ぶ厚い雲の中をやみくもにずっと飛行していたのが一気に雲が切れ、全面濃いスカイブルーの広々とした空中に飛び出した。その瞬間、目の前に見えたものは何だったろうか。さらなる遥かな地平を背景に、虚空に舞う目まいのような感覚の中で、見えてきたものをここでとりあえず描いておこう・・・そういうような作品だと思った。そしてそこに浮かぶ過去の形象は、もはや、はるかに今生を超えた記憶にまでつながっていて、あたかも未来が過去の姿をまとって立ち上がってきたかのようだ。はるかに遠く、あまりにもやるせなく、そしてかけがえのないなつかしい記憶の数々・・・。

西ノ京-2:唐招提寺

この前の続き。
古墳の本場にいながら、それほど数は見ていないが、あと印象に残っているのを挙げるとすれば、大阪の近鉄藤井寺駅付近の「岡ミサンザイ古墳」だろうか。ここも宮内庁の想定によれば仲哀天皇陵ということになるが、その近くで数年前に診療所の仕事をやったので、何回か脇を歩いたことがあった。規模は宝来山古墳よりわずかに大きいくらいだが、まったくの市街地だからすぐ周囲はびっしりと住宅が建ち、道路と濠の空間はあっても、それくらいの余裕だけでは少し窮屈な感じがした。それに比べるとここは周りに広々とのどかな田園地帯が広がっていて、自由に夢想にふける気分になれるのがうれしい。

そんなことを考えながら、古墳に別れを告げ、御陵の東側を走る道に入って南下した。しばらく歩くと突き当たりのT字路で、そこを左折し、さっきの道と平行に走っている近鉄線の踏み切りを越えると唐招提寺はもう目の前。すでに左側の森は境内の一部だ。眺めるとその向うに白いシートで覆われた見慣れない巨大なバラックのようなものが見えたが、現在解体修理中の金堂の覆い屋だろう。

唐招提寺は、大学院生の頃、それこそしつこいくらいに何回も訪れた思い出がある。東京から帰阪してからも数回は来ているが、今は肝心の金堂も見られないし、今回の目的外だったので寄るつもりはなく、門前の手前の道を右に曲がって薬師寺へ向かった。

唐招提寺については、深い緑に包まれて金堂の背後につつましやかに広がる静謐な伽藍空間を別とすると、思い出としては宝物殿にある有名なトルソーと、御影堂にある鑑真和上像が一番にあがるだろうか。あとは確か、名前は忘れたが某天皇直筆の扁額があったのをなぜかよく覚えている(今調べると孝謙天皇だった)。今はどうか知らないが、その頃は宝物殿の入口の大きな開口の上にかかっていて、建物自体をお堂のように感じたなつかしい感触の記憶が残っている。

またこれは独立してからだが、御影堂(みえいどう)の観月会(かんげつえ)に招待してもらったことがある。夕方くらいに着き、庭の一画に建つ小間(こま)の茶室でお薄のふるまいを受けてから堂内へ上った。もちろん鑑真像もあったが、二間続きに並ぶ東山魁夷画伯の一連の襖絵を、とても見事に思ったのが印象に残っている。ただ、あいにく台風が関西地方に接近してのくもり空で、会があったとしても肝心の観月ができるのか前日にかなり心配した。着いたときにもまだ厚い雲がかかっていて、一時はほとんどあきらめたくらい。だが幸運にも台風は南にそれてくれて、結局、奈良には大した影響もなく終わったようだ。そして台風一過、ようやく帰る時分になってからだが、空はあざやかに澄みわたって、すでに中天にかかった満月が皓々と輝き、最後は忘れられないような良夜となった。

西ノ京-1:宝来山古墳

この連休の最後に一人でぶらりと西ノ京まで行ってきた。数回に分けて書いておきたいと思う。

13日の月曜日、快晴の天候にも誘われて、昼過ぎごろに家を出て、近鉄の快速電車に乗って奈良へ。西大寺で橿原神宮行きの各駅停車に乗りかえ、次の尼ヶ辻駅で下車。これが今回の大きな目的の一つだったが、久しぶりに古墳を見てみたいと思ったのだ。名称は蓬莱(宝来)山古墳といい、宮内庁が垂仁天皇陵に比定しているが、この天皇の実在さえ曖昧なところがあるので、これはまあ愛称のようなものだろう。

昔にも何度か来たことがあり、尼ヶ辻駅の近くだとは覚えていたが、歩き出すと駅前の小さな住宅地のすぐ裏に突然ぬっと出てきたのでびっくりした。そういえば昔はいつも唐招提寺に行った帰りに南から歩いて来たので、逆に尼ヶ辻駅から向かうのはこれが初めてだった。

実はこのところ、ちょうど読書の秋だがTVが故障中ということもあって、日本古代史の本をあさっては、読みふけっている。まあそれで古墳を見てみたいと思ったのだが、ある本によれば、ここはいわゆる古墳時代でも最盛期の河内古墳群より前の時代の佐紀古墳群の一つで、おそらくは初めて平地に築かれた前方後円墳だそうだ。それまでは山の裾野のあたりに地形を削りだして形を作り、きちんとした濠もなかったのが、ようやく濠を全周に掘りこみ、その残土を利用して墳丘を作ったのだという。

最初の写真は尼ヶ辻駅から歩き出して突然出くわしたところから、一周してみようと思い立って、北側に回りこんだあたりで撮ったもの。南が正面の前方後円墳だから背後の円丘部分の裏側だが、この水に接さんばかりにふくらみ、雲のように湧き立つ緑の圧倒的な迫力に息を呑む思いで撮った。そう、この原初的な水と緑の景色を目にするためにわざわざ来たのだった。
宝来山古墳-1

次は西側からほぼ南端に回りこんだところで撮った全貌。こちら側は駅や線路から裏になるからか、地形も沈んでいるからだろうか、濠端には入れないようになっていた。
宝来山古墳-2
宝来山古墳-3
上の写真はようやく南側正面の白い砂利の敷き詰められた広場に着いて撮ったもの。他の天皇陵と同じくやはり脇に小さな監視小屋が置かれてあったが、よく見るとここは中に本当に人がいたので驚いた。まあ口をあんぐり開けて熟睡中のご様子だったが。

ここは前方部(正面表側の台形の墳丘部)になるが、下はその東部分のアップ。一服しながらゆっくり眺めていると、裸の野性というか、自然の隆々たる息吹の力強さと同時に、歴史のはるかなる年月の重みとその底に沈む太古の冥(くら)さのようなものまで一緒に感じさせてくれて、なにやらドキドキした。
宝来山古墳-4

最後はそこからもっと東へ歩いてから撮った写真。左の明るい部分が前方部の東かどで、右の暗い部分が奥の円丘部の側面になるが、やはり写真にすると、かなりある奥行きがほとんど消えてしまってよく分からないのが残念。
宝来山古墳-5