手がけているある住宅の工事が大詰めということもあり、仕事がかなり忙しくて、なかなかここに書き込むことができなかった。
今日は前回の続きで慈光院から。
慈光院は、茶人でもある片桐石見守貞昌(石州)によって、1663年に父親の菩提寺として建立された臨済宗大徳寺派の寺院。彼の茶の湯の弟子としては、徳川四代将軍家綱や水戸光圀の名前もあがっているから大した存在だったようだ。まあ興味ある方は
ホームページをのぞいてみてください。ただ、一文だけそこからここに引用しておきます。
「寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま三百年を越えて眼にすることができるということは、全国的に見ても貴重な場所となっている。」
ここには茶室・書院・手水鉢と、重要文化財の指定を受けたものが三つある。

ここで一応、日本建築の歴史を簡単に振り返っておきたい。
慈光院ができた1663年というと江戸時代の初め。日本の建築文化としては、聖徳太子の時代に輸入された仏教建築様式が、平安時代の半鎖国化によって日本風に整理洗練されたものの、激動の鎌倉初期に入ると、まず重源によって東大寺南大門に代表される「天竺様」が移入され、引き続いて禅宗とともに「唐様」が新たに中国からもたらされた。それ以降、室町時代にかけてそれらの混交と熟成が進み、いわゆる「折衷様」という純日本の様式としてゆるやかにまとまっていった。
でも純日本の様式といいながら「折衷様」という名前はちょっと残念だ。ただ以上は寺院建築の流れで、現在の仏教界を見ても、鎌倉時代にそろった諸宗派がそのまま複雑化しただけのまだら模様だから、それでいいのかもしれない。
しかし一方、武家の台頭とともに支配層の住宅建築(屋敷)の様式も、いわゆる平安時代の「寝殿造り」から、とくに新たな武家と禅宗の脈絡の中で激しく発酵をはじめ、徐々にだが大きく変貌をとげていった。そこでは住宅兼仏堂という禅宗の「方丈」建築が決定的な役割を果たしたようだ。室町初期の金閣や銀閣を経て、戦国時代の動乱までに徹底的に内容の組み換えと整理を受け、桃山から江戸初期にかけて、ついには洗練の極地にまでたどりつくことになる。
様式としての名前をいえばフォーマルな「書院」と、それに茶室の味を加えてくずした「数奇屋」だが、これらこそが本来の意味で他にはない純日本の建築様式と言ってもいいだろう。
その極点として一つあげるならやはり「桂離宮」だろうが、これも慈光院と同じ17世紀、1600年代だ。そしてこの辺りで初めて、日本の建築様式も西洋なみに言語化されて文書となる。1608年に書かれたという「匠明(しょうめい)五巻」を皮切りにし、それからもいくつかの「木割(きわり)書」が書かれたが、以後、残念なことに日本の伝統建築は発展から固定化に転じ、よく言っても装飾と洗練に走るのみで、まあほとんど惰性に落ちてしまうことになる。明治の西洋文化の移入までは。
歴史を書いていると長くなってしまった。今日はこの辺で。