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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

照明と建築のディテール

千里山東の照明-2
新しい住宅に取り付けた特注照明の写真。といっても大した予算はなく、灯具自体は既製品を利用して作った。照明デザイン事務所の(株)ライズ制作。代表の岡さんがアイデアを出し、担当のY君が、こちらの細かい要求にいろいろと頭を悩ましながらまとめてくれた。壁の前の大きな鉄骨の梁は、構造的な意味はなくて、和室で言う「落し掛け」。これはもともとの設計にあったので、これを利用して留め方を考えた。

ささやかなものだが、結果としては本当に予想以上にうまくいったと思う。照明はそれ自身は見えないで光だけほしいというのが持論だが、Y君の努力でとてもコンパクトにまとまった。前の三つの松下製スポットライトの他に、その根元の横に伸びる長方形の立体の中に天井を照らす蛍光灯が入っている。光の具合もとてもよかった。
千里山東の照明-1

しかし自分でもこの小さな器具が、広間の大きなヴォールト天井の空間の中で、これだけ「きく」とは思わなかった。空間造りにおける、ディテールのもつ力をあらためて思い知らされた。

千里山東の照明-3

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「千里山東の家」見学会のお知らせ

SH-道路側外観
このたびでき上がる新しい住宅の見学会を、急ですが今週28日に催します。今まではやっても、ここにまで書くようなことはしていなかったのですが、今回は初めて書き込んでみます。

あらためて日時など書きますと、
5月28日(木曜日)午前11時から午後7時まで。
場所は大阪府吹田市。最寄の駅は阪急千里線「関大前」で、そこから徒歩7,8分。
お車はご遠慮ください。

建物は鉄筋コンクリート造で、壁式ラーメン構造二階建ての専用住宅です。
SH-広間と南側パティオ

ただ、いわゆるオープンハウスではありませんので、下記のメールアドレスまで
簡単でけっこうですのでご覧になりたい趣旨をお書き添えの上、お申し込みください。
地図など資料をお送りします。

y_mat@pop01.odn.ne.jp
ただし最後の「p」は、全角文字に変えています。もちろん本来は半角小文字の「p」で、お手数ですが、ご自分でお書き換えの上ご使用下さい。あるいは左下のリンクにある「松田靖弘建築設計室」のホームページには、同じあて先のリンクマークがいくつも貼ってありますので、そちらをご利用していただくという手もあります。恐縮ですが、こうしないとしばらく迷惑メールの嵐が来そうで、どうか悪しからずご理解ください。


SH-広間と南側中庭

以下内容の案内です。

建築としては、最近では防犯上難しくなったと思っていたコートハウスをようやく実現できたのが、自分としての特筆事項です。中心である二階の大きな広間(LDK)空間は、南と北に、ともに外部に閉鎖された緑の中庭とドライなパティオという外部空間を持ち、採光や通風を十分に確保しながら、高いプライバシーを備えています。

ここの家具はソファとしてカッシーナのものを選ばれ、RC造のヴォールト天井の南側妻面の高窓には、京都のアガタモザイク制作のステンドグラスが入り、メインの照明はライズ制作の特注品という少し贅沢な空間です。

中央の中庭は、ヤマボウシを中心に5O種類ほどの植物を植え込み、その豊かな緑は、1階では四ヶ所の開口から、2階では北側の広間の大開口と南側の水廻りの窓、そしてオープンな外部デッキからと、さまざまな角度からその四季の移ろいを眺めることができます。

地中海へのあこがれを持たれる施主とともに作ってきた住まいですが、外部空間についても、寝椅子や屋外チェアなどを備えて、屋内と一体に広がるのびのびとした住空間にすることができたのではないかと思っています。
SH-浴室洗面から中庭を望む

奈良の古建築-6:慈光院3

明日はいよいよ早朝から久しぶりの植栽工事。忙しいのは確かだが、とにかく慈光院までは何とかけりをつけておきたいと思う。もうそのうち季節が移ってしまう。

利休のわび茶が、織部を経て遠州へと発展していくときの印象的なできごととして、利休の秘伝書として伝わる「南方録」に有名な記事がある。勝手な大意を書く。

「昨今の茶会で、小座敷だけではと、鎖の間と称して別に書院などの座敷を用意し、そこへ移って改めて接待するようなことがはやっているが、そういうことは侘び茶がすたれる元となるのでやってはいけない。」

でも織部以降は、この利休の意にそむくような流れになっていった。今では広間の茶はコースの一つ。富裕な中世の自由都市堺の町人と、その後を引きとった権力の軋轢に生きる武人の違いもあっただろうか。秀吉から家康へと権力は移ったが、その周囲に政治的な体制がどんどん確立発展していき、官僚主義の息苦しさまで感じるような世の中になりつつあるとき、あまりにも自由だが、その対価として命までかけねばならぬような強い緊張感と厳しさをはらむわび茶には、そのまま生き延びていく余地など、もはや誰も(誰だって!)見つけることはできなかったのだ。

さて、上に出てきた「鎖(くさり)の間」と称された空間がキーワードのようだ。喫茶の当初の舞台も書院だったが、小間(こま)に凝集されたわび茶をへて、書院の茶はここからあらためて発展していった。「書院」と「小間」の間に、もう一つ別の「鎖の間」を設定することで、書院の格式には手をつけず、草庵でも書院でもなく、それらを自由に組み合わせた舞台をあらためて考えることができるようになったのだろう。いわゆる今につながる「数奇屋」建築の誕生だ。

あまり詳細に見ていないので詳しいことは書けないが、昨日の写真の慈光院の角の大広間も、おそらく概念としては「鎖の間」だったのだろう。下の写真はそこで180度振り返ったアングルだが、床の左手が畳敷きで、奥は襖になっている。その場合はこの畳が手前座になるのだろう。
慈光院 床の間

この形は桂離宮にもあるし、数奇屋書院には珍しくもないが、自分が書院の高峰(さらに日本の伝統建築と言ってもよいが)のなかで唯一見逃していると思っている、西本願寺の黒書院もそうだ(ただ奥は付け書院になっている。まったく余談だが、誰かここを拝見するツテを紹介してもらえないものだろうか?)。また昨日書いた遠州の孤蓬(こほう)庵の有名な「忘筌(ぼうせん)」席も同じかたち。

さて、ようやく本題の慈光院にふれる時がきた。石州は遠州の弟子ではないが、その後を継いで将軍家指南役に上った。「奈良の古建築-2」で引用した記事にあったように「茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部」が揃っているということは、すでにここで、ほぼ今と同じような茶の湯の形式が確立されていたということになる。

ただ様式的には、ある極点を突破したという余裕と誇らしさは感じるし、また空間構築のすばらしい大胆さや見事さはあっても、ここにはもはや驚くような厳しさやためらいは存在しない。借景した大和の穏やかな田園風景とあいまって、安定期に入った江戸時代武家社会の、華麗だが平和で落ち着いた隠遁生活の様子がうかんでくるように思う。

でも書院の間の鍵の手の大開口は、その日の写真でも分かるように、建築として本当に見事なものだ。書院と書いたが、いわゆる様式のボキャブラリーとしての長押(なげし)はついていない。でも上の写真の床の間とその脇にある付書院のたたずまいを見ても、書院としての格調はまぎれもない。「鎖の間」という概念を「てこ」として、格式に固まった書院に颯々(さつさつ)たる風を通し、現代にまでつながる「数奇屋」様式の一つの典型として、すばらしい建築だと思う。

奈良の古建築-5:茶人達

この機会を利用して、せっかくなのでまた歴史のこととなるが自分なりの整理のためにも、茶室のことについて少しまとめておこう。といっても大げさなことはとても無理だから、勝手な選択で、建築に関連の深いコアな部分だけを。

WEBという便利な道具のおかげで簡単に調べることができたが、下は慈光院を作った片桐石州まで、戦国から江戸初期に生きた数人の著名な茶人の生没年と、参考に出身地。誕生順に並べておく。

千 利休 1522-1591 大阪府堺市
古田 織部(ふるた おりべ)1544-1615 美濃国
織田 有楽(うらく)1547-1621(信長のかなり下の弟)
小堀 遠州 1579-1647 滋賀県長浜市
片桐 石州 1605-1673 摂津 茨木市

あと政治の世界で、次の三人の生没年を。
織田信長1534-1582(織田有楽の兄)
豊臣秀吉1537-1598
徳川家康1543-1616

補足として、本能寺の変は上記で分かるので、1600年関が原の戦い、1603年には江戸幕府が開かれた。たどっていても、まさに目まいのするような激動の時代であった。

茶人では前半の三人が戦国時代の末を生き抜いた人たち(小堀遠州も武将だが、関が原のときはまだ家督も継いでおらず、弱冠20か21歳だった)。利休と織部は、最後はどちらも時の権力者である秀吉と家康によって殺されている。そして華やかな素性の有楽さえ、無事生き抜いたとはいえ、世も変わり、すねに深い傷を負ってのことで、安穏な人生だったとはとても思えない。だから草庵茶室を生み出した「わび茶」の一見ひなびた静けさの背後には、簡単には近寄りがたいような厳しさと極寒の深淵が潜んでいると考えるべきなのだろう。

ずっと前にも書いたが、国宝の茶室として三つある。というか三つしかない。一つは利休の「待庵」。次に、その時に書いていた「如庵」。織田有楽のものだ。この二つは私も訪れたことがある。最後の三つ目はまだ行ったことがないが「密庵(みったん)」で小堀遠州の手になる。

三つを比較すると、最後の「密庵」だけが、いわゆる草庵茶室ではない。故西沢文隆氏も言うように、書院の(部屋の)中にある茶室という、かなり特殊な造りになっている。遠州の茶は「きれい寂び」という言葉で表現されるが、つきはなして言えば、徳川のゆるぎない趨勢の中に身をおいて、非常に賢い世渡りをしていったように見える。でも彼は晩年の利休にも会っているらしいし(10歳くらいか)、さらに織部の弟子だから、彼らの死がどんなに深く彼の心に刻み込まれたか、私の想像の域をはるかにこえる。そして彼は、戦国末期のあまりにも厳しく凝集された時間の中で完成されてきた「わび茶」に対して、劇的に様変わりした平安の世に合わせ、なんとも「クール」に、新たな展開の道筋をつけていったように思う。

桂離宮も大きく彼の影響下にあると言われるが、前回まで書いてきた「書院」と「茶室」を、徳川の世の集約された雰囲気を背景に、武家の茶人として、彼はおそらく命をかけてまとめようという試みをやった人ではなかったかと思う。それほどよく知らないので、これ以上は口をつぐむべきかもしれないが、レトリックの勢いのままに書くと、「密庵」を写真で見ても、彼の号でもある「孤蓬庵」を訪れても、単に書院を「くずした」というような意味での「数奇屋」ではない。そこでは、それらは互いに「書院」であり「草庵茶室」であるという背筋の伸びをまったくたわめないまま、極度に繊細な緊張感をもってそのまま共存しているように思う。

石州までたどりつけなかった。以下次回に

奈良の古建築-4:慈光院2

慈光院に戻ろう。ここに来るのはわたしはもう三回目。もう一人も以前来たことがあり、残りの若い3人と中堅の一人は初めて。最初の中家とここ以外は、私の選択で中世の寺院二つだから、彼らにとっての今日の目玉として、ぜひ入れてあげようと思ったのだ。(私だってもう一度見たいとは思ったが)。

慈光院 広間-1
彼らの反応は予想通りというかそれ以上だった。見事にくいついてくれた(ごめんなさい。言葉が悪い!)。とにかくここは、とくに建築を志す人にとっては、現代にもダイレクトにつながるような新鮮さと迫力にあふれている空間だと思う。建築を知らない人には分からなくて恐縮だが、近代建築の巨匠ミースの空間を思い起こさせると言っても、知っている人にはある程度の同意をしてもらえるだろう。もちろん「ある程度」だが。

慈光院 広間-2

奈良の古建築-3:続建築史

前回の続き。歴史についてもう少し書きたい。

応仁の乱から安土桃山時代というのは、歴史を読んでいると本当に日本の革命期だったといつも思う。信長の光芒があまりにも強烈だが、その下地として戦国の動乱があった。

革命期と書いたのは、政治的にはもちろんそうだが、経済的にも社会的にも本当にそうだったと思う。そして美術の分野でも。建築においては「書院」が長い熟成期間を経て、ようやく大きく整理されて完成した姿をあらわした。そしてその時点で、ある意味での極限まで行ったのだと思う。極限までと書くのは、それ以降、様式的に発展しなかったということもあるが、後で書く例に見られるように、そう思わせるだけの精度と完成度を持っていたと思う。ただ「数奇屋」は別で、書院の発展ではなくて変種、ハイブリッド(雑種)とでも言うべきだろう。茶室と書院では、追っていた理想がまったく違うから。

江戸時代になっての発展停止は、政治的安定ということが大きな原因かもしれないが、様式が文書化されたこととは別だと思いたい。文書化はこの時代の完成度がもたらした結果の一つにすぎないと思う。ただ「茶室」もまた戦国期に胚胎され、利休の手によって極限まで切り詰めた姿にまで凝集されて、明確な一つの理想を生み出した。日本の伝統的建築様式の極北としては、「書院」とともに、「数奇屋」ではなく「茶室」をあげるべきなのかもしれない(もともとは数奇屋と茶室は同義だが)。

ここからしばらくちょっと専門的になるので、分かりにくければ読み飛ばしてください。

この時期の「書院」として見事な例がいくつも残っているが、若い頃にそれらのあまりの相同性に非常に驚き、強く感動した記憶がある。そこに一つの建築理想としての「書院」の、具体的な原型の存在を感じたからだ。おもいつくままそれらの例の名前をあげると、三井寺の光浄院(1601)および勧学院(1600)の客殿。東京は護国寺の月光殿(やはり三井寺からの移築)。東寺の観智院客殿(1605)。これらは若い頃に実際に見に行った。とくに最初の三つはほとんど同じと言ってもいいくらいのもので、手元にある最初の木割書である「匠明」に描かれた客殿もほぼ同じだ。これらがほんの10年ほどの間に次々と建てられ、その間には、内法(うちのり)制の畳割モジュールが最終的に完成していく進化の跡までたどれる。

自分の中ではそれらの持つ(観智院にはないが)「中門廊」の存在がずっと謎だったが、はるかに平安時代の寝殿造りの系譜を直接引くものだということを、最近ようやくある本によって腑に落ちるように理解できた。そして「門」という建築アプローチの、ある特殊な景色を、伝統がいかに大事にし、こだわり引きずってきたかということに、あらためて感嘆させられた。建築はある意味では本当に保守的なものなのだ。


ともかく江戸時代初期に、規模としては二条城二の丸御殿に代表される書院の姿として完成されたが、それらに残る金碧の障壁画は、成熟した建築様式の静けさを背景に、激動の時代のすさまじかった息吹と熱気を同時に感じさせてくれる。

ただ徳川の世になり、ようやく政治的にも落ち着いて長期の安定期に入ろうとするこの時代になって、それらの熱気が静かに冷えて沈殿していこうとしたとき、それを驚くほど繊細に、また柔らかな感覚でみごとに定着したのは、時代を導いた武家ではなくて、はるかな王朝の伝統と高いプライドをもつ公家だった。これは、さすがというか何とも印象的だ。

長くなった。歴史についてはこれでいったん終わろう。次回は慈光院の続きから。

奈良の古建築-2:慈光院と建築史

手がけているある住宅の工事が大詰めということもあり、仕事がかなり忙しくて、なかなかここに書き込むことができなかった。

今日は前回の続きで慈光院から。

慈光院は、茶人でもある片桐石見守貞昌(石州)によって、1663年に父親の菩提寺として建立された臨済宗大徳寺派の寺院。彼の茶の湯の弟子としては、徳川四代将軍家綱や水戸光圀の名前もあがっているから大した存在だったようだ。まあ興味ある方はホームページをのぞいてみてください。ただ、一文だけそこからここに引用しておきます。

「寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま三百年を越えて眼にすることができるということは、全国的に見ても貴重な場所となっている。」

ここには茶室・書院・手水鉢と、重要文化財の指定を受けたものが三つある。
慈光院 門からの眺め

ここで一応、日本建築の歴史を簡単に振り返っておきたい。

慈光院ができた1663年というと江戸時代の初め。日本の建築文化としては、聖徳太子の時代に輸入された仏教建築様式が、平安時代の半鎖国化によって日本風に整理洗練されたものの、激動の鎌倉初期に入ると、まず重源によって東大寺南大門に代表される「天竺様」が移入され、引き続いて禅宗とともに「唐様」が新たに中国からもたらされた。それ以降、室町時代にかけてそれらの混交と熟成が進み、いわゆる「折衷様」という純日本の様式としてゆるやかにまとまっていった。

でも純日本の様式といいながら「折衷様」という名前はちょっと残念だ。ただ以上は寺院建築の流れで、現在の仏教界を見ても、鎌倉時代にそろった諸宗派がそのまま複雑化しただけのまだら模様だから、それでいいのかもしれない。

しかし一方、武家の台頭とともに支配層の住宅建築(屋敷)の様式も、いわゆる平安時代の「寝殿造り」から、とくに新たな武家と禅宗の脈絡の中で激しく発酵をはじめ、徐々にだが大きく変貌をとげていった。そこでは住宅兼仏堂という禅宗の「方丈」建築が決定的な役割を果たしたようだ。室町初期の金閣や銀閣を経て、戦国時代の動乱までに徹底的に内容の組み換えと整理を受け、桃山から江戸初期にかけて、ついには洗練の極地にまでたどりつくことになる。

様式としての名前をいえばフォーマルな「書院」と、それに茶室の味を加えてくずした「数奇屋」だが、これらこそが本来の意味で他にはない純日本の建築様式と言ってもいいだろう。

その極点として一つあげるならやはり「桂離宮」だろうが、これも慈光院と同じ17世紀、1600年代だ。そしてこの辺りで初めて、日本の建築様式も西洋なみに言語化されて文書となる。1608年に書かれたという「匠明(しょうめい)五巻」を皮切りにし、それからもいくつかの「木割(きわり)書」が書かれたが、以後、残念なことに日本の伝統建築は発展から固定化に転じ、よく言っても装飾と洗練に走るのみで、まあほとんど惰性に落ちてしまうことになる。明治の西洋文化の移入までは。

歴史を書いていると長くなってしまった。今日はこの辺で。

奈良の古建築-1:中家

奈良のことを書こう。

私を含む5名が、朝九時過ぎに近鉄生駒駅改札に集合し、下のロータリーで待っていたK君のワゴン車に乗り込んで出発。総勢6人のメンバー。遅刻者もなく、ビートルズのBGMにのって車は一路南へと快調にすべり出した。でも天候はあいにくの雨模様だ。

この日の予定は、まず法隆寺の近く安堵町にある、今日の主眼である環濠形式の民家「中家」を訪ねてから、借景で有名な郡山の「慈光院」へ。昼食後、春日山を駆け上がり、柳生街道沿いの「円成(えんじょう)寺」を訪問し、最後が冨雄の「長弓寺」。冨雄は生駒の東隣だから、奈良市周辺を左回りに大きく一周してくるコースになる。

中家門前の橋
最初に行った「中家」は、同じ名前のやはり重文民家が大阪府泉南郡の熊取にもあるが、関係については知らない。三つのトリオのうちの中央という意味の「中」のようだから、他の組み合わせが東・西か南・北か奥・前か知らないが、それほど特殊な名前でもないようだ。ここを見に行こうというのが、私が出した今回の最初の提案だった。
中家のアプローチ
自分がまだ大学院生のときだったが、同じ研究室の友人が行ってきて、くろうとはだしの腕で撮ったたくさんの写真を見せてもらい、環濠に囲まれた美しい風景が目に焼きついた。それからは、いつか自分も訪ねてみようとずっと思っていたのだった。数えてみて驚くが、ほぼ30年ごしの恋の成就ということになる。
中家母屋の土間
午前10時の予約をK君がとってくれていたが、雨もあって30分近く遅れて着いた。解体修理されてからは実際には住んでおられないとはいえ、いわゆる一般公開はしておらず、予約がいる。まあ個人邸の一部なのだから考えてみればあたりまえだ。きれいでかわいい若奥様が出てこられて、専門家の方々のようですからと最初は遠慮気味だったが、一時間以上にわたって、廻りながら熱心でていねいな説明をしていただいたのには一同感激した。
中家母屋北側
とにかく大きな民家だが、何よりも敷地周囲を二重の環濠で囲まれているというのがここの眼目。環濠集落というのはよくあるが、環濠屋敷というのは珍しい。それも環濠が両方みごとに残っている。母屋など主要な部分は大判の写真つきの手元の資料があるので写真もあまり撮らずじっくり見せてもらったが、少し離れた二重環濠の間の敷地に自家の持仏堂まであるのには、まったく知らなかったので驚かされた。横には大きな庫裏もあって、往時は住持がいて住んでおられたというから、何とも豪勢なものだ。下がその写真。
中家の持仏堂と庫裏
ていねいに見せてもらったおかげで予定時間をオーバーし、この後行く予定のコンサートの時間が迫っているからと、ついにはやさしそうなご主人まで様子を見に出てこられたのには恐縮した。本当にどうもありがとうございました。
中家の環濠風景

長くなったので、とりあえず今日はこの辺にしよう。次回は慈光院から。

友ヶ島 拾遺

忘れないうちに奈良のことを書いておきたいが、その前にまだキャンプの余韻が残っているので今日もそのことを少し。

友ヶ島のたき火
写真はキャンプサイトで焚いていた火。一昨日の写真で魚を焼いていたところ。野生化した鹿という天然芝刈り機おかげで、サイトの地面は奈良公園のように見事な芝生だから、直火は禁止だ。その代わりに豆のような糞があちこちに散らばっている。

キャンプ二日目は、午前中桟橋まで釣りに出かけたが、午後からは私はサイトで留守番。その日はスカウトたちは朝から夕方までずっと島北端へ出かけたので、本部サイトで待機する団委員は暇で、釣り三昧だった。サイトに一人でいても手持ち無沙汰なので、何となく火をおこしてボーっと眺めていた。くべる木の枝はあたりにいっぱい落ちていて、しかも乾いているのでよく燃えた。たまに炎が消えて熾き火になっても、背後の山裾の落ち葉を手づかみで持ってきてくべると、強い海風にあおられてすぐに煙が立ち、しばらくすると自然に燃え出した。その日はそれから寝るまで一日中ずっと炎を眺めていたような感じ。

一日目に強かった風は少し弱まっていたが、海辺から絶え間なく吹き抜ける風は終日やまず、ずっと潮風の中ですごした。でもそれが意外に心地よくて、海沿いの地域にたくさんの療養所や保養所が建てられている理由を初めて実感することができた。

友ヶ島のくらげ
上は釣りをしているときに撮ったくらげ。いい感じの写真になったのでここに揚げることにした。彼らは渚では釣りの邪魔になるくらいたくさん見かけた。これは何という名前か知らないが、ほかには小型の水くらげもたくさんふわふわ浮いていた。

ちなみにボーイスカウト隊は現在2班構成だが、1班の名前は「クラゲ班」という。もう1班は「オオカミ班」で、どちらもスカウトたち自身で相談して決めた名前だが、たいていは勇猛な獣の名前だから、これで普通。地区の催しなんかで他の団の人たちには、クラゲ班なんて初めて聞くし、軟弱で変な名前と馬鹿にされたりしたこともあったようだ。でも私が最初に「クラゲ班」と聞いたときには、おもしろい名前をつけたものだと感心した覚えがある。そういうものに反応する時代になってきているとは感じるし、それをすくいとり、素直に名づけた感性をなかなかいいと思ったのだ。

友ヶ島キャンプ2009

本来なら、順番としては奈良の古建築めぐりのことを書くべきだが、連休の二日から昨日まで二泊三日で、ボーイスカウトで和歌山県の友ヶ島へ行ってきたのでそれを先に書いておきます。

今回の催しは、ボーイ隊のスカウトたちがずっと前から念願していて、ようやく実現した無人島キャンプ。友ヶ島は和歌山県だが、淡路島との海峡に浮かぶまあ大きな島で、唯一の桟橋も淡路島側にあって、淡路島の方が近い。でもここに住民票のある人はなく、一応無人島と言ってもよいかもしれない。ただ民宿が一軒あり、ゴールデンウィークということもあって船は満杯、けっこうな人出だった。とはいえ定期船は定員120名で、日に5回ほど往復するだけだから、大きな島だがそれでも人口千人にもならなかったろう。

友ヶ島-1
上の一枚目は出港前の加太港の桟橋で、乗船前にあたりを「偵察」に行っているスカウトたち。ズームをきかしたカメラの位置がちょうど埠頭の床の高さのようで、足元に小さく見えているのはさらに向うの埠頭で釣っている人たち。この前の催しでガリバー役をやったが、まるで小人の国を散歩しているような格好で、おもしろい写真になった。

船は20分ほどで友ヶ島の野瀬港に着き、そこから歩いて10分ほどの、島の中央にあって一番大きい垂水キャンプ場を本部とし、そこに着いてすぐにテントとマーキーを張った。この日は風がすごく強くて、インスタントマーキーには補強のロープを何本も張った(下の左手奥にある)。ドームテントは山のふもとに張ったが、せっかくの芝生をはずれていて、寝るときはかなり背中が痛かった。そしてその日の夜は明け方まで強い風がやまず、久しぶりの寝袋だし、かなり寒くてなかなか寝付けなかった。
友ヶ島-2
上の写真は、翌日八時半の朝礼。できたサイトで国旗を上げて敬礼の場面だが、私も含め、ある年代には多少抵抗があるかもしれない。ナショナリズムに対しての強い警戒感を、若いころに受けた教育によって身にしみて持っている世代だ。話しがそれるが、昔、フランスへ行ったとき、着いた翌日がちょうど革命記念日で、ルーブル宮の横を歩きながら、上空をジェット戦闘機が編隊を組み、轟音をたててデモンストレーション飛行をやっているのを見た。変な話しだが、そのとき身の内にほとばしるような愛国心の高揚を感じ、自国である日本に対しては、屈折した哀れな関係しかもてないのをなぜなんだろうとしばらく考えた記憶がある。

閑話休題。
二日目はスカウトたちは島の北端の方へ行って釣りをして、それをおかずに昼食のはずだったが、フグ以外釣れず、かわいそうに塩ご飯だけになったそうだ。まあ、本部に残ったわれわれも釣りをしたが、午前中はやはりボウズだった。でも夕方にはアイナメとベラが二尾ほど釣れ、私は引っ掛けたものの棹を折られて逃げられたが、朝仕掛けた網袋にやはりタコがかかり、夕食にはそれらも食材になった。

友ヶ島-3
三日目は、リベンジ!とばかりスカウトたちの起床時間6時より早く、早朝5時に起きて渚に出かけ、私はベラを一尾釣り上げてきた。上はそれを熾き火で焼いているところ。岩塩をおもいっきりかけて焼き、団員三人でつまんで食べたがなかなかうまかった。

わたしと団委員長のT氏は、予定通り昨日、三日目の夕方で帰ったが、全体は四泊五日で明日が最終日。長丁場だが、彼らにとってどんなキャンプの思い出になるのだろうか。