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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

あじさいと青衣の女人

奈良の古建築は、あと長弓寺を残すだけになったが、今日は別のことをはさもう。下は東京の友人が送ってくれたあじさいの花の写真。
あじさいの花2009
この青色はとてもすてきな色だと思う。
(ただこの写真のは咲いてから少し経つか、土壌の具合か、すでにほんのりと赤みがある。本当に惹かれるのは、もっとぬけるような青色だが、送ってくれた人にはゴメンナサイ!)

あじさいの花は、咲いてから色が変わっていくが、この色から始まるというのもいい。「青春」という言葉もあるが、初々しさや、みずみずしくて清潔な風情を、花の時期も終えて汗ばんでくるこの季節になって、あらためて感じさせてくれるというのは、とても貴重なことだと思う。

ただ青色は自分の好きな色だが、青色と聞いてまず思いうかべるのは宮沢賢治だろうか。東北の寒気にきびしく共鳴し、冷たくて透明な深さをもった鉱物質の青色だ。でもあじさいの花のこの青色はだいぶ様子が違う。透明感より豊穣さがきわだつ不思議な青。

それではこの色に似ているというか、そこから連想するのは何だろうと考えていて、ふと思いついたのが、かなり唐突だが「青衣の女人(しょうえのにょにん)」。やはり前回の最後にふれた作家の井上靖氏の「お水取り」の文章に出てきた女性(の幽霊?)。「お水取り」と言えば、関西では春の到来を告げる東大寺二月堂の古くからの行事だが、他の地域の人だとあまりなじみがないかもしれない。

説明すると長くなるので、Wikipediaの「修二会」(しゅにえ)の項目からとりあえず一部を引用しておきます。

「また3月5日と12日の2回過去帳読誦が行われる。過去帳では聖武天皇以来の東大寺有縁の人々の名前が朗々と読み上げられる。

これには怪談めいた話がある。鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、

「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」

と言った。なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。集慶が声をひそめて「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。」


勝手な引用だし、お水取りも含め、詳しくは上記リンク先でお読みください。井上靖氏の文章もほぼ同じような内容だったと思うが、何とも妖艶で深いロマンを感じさせる伝説だ。まああじさいの花となると季節はかなりずれるが、この女性(の幽霊?)が誰なのかまったく不明なまま、いまだにずっと読み継がれているというのもなかなかいい話しだと思う。

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奈良の古建築-11:円成寺中世の風景

もう一つだけここで書いておきたいので、今日も円成寺。

一応予約というか連絡してたずねたと書いたが、ご住職の田畑氏が待っていてくださった。まだあわただしい雰囲気も抜けず、とりあえずの簡単な説明だけ受け、しばらくはわれわれだけで境内を拝見し、終わったら声をかけてくださいとのことだった。ここには建築だけでも国宝や重文などいくつもあるのでゆっくり見て回ったころ、ちょうど田畑氏の姿を見かけて声をかけた。

奥の比較的新しい庫裏(くり)のような建物に招き入れられ、会議室のように四角にテーブルが廻っている洋室に入って、みんなでお茶とお菓子をごちそうになった。おそらく紹介の労をとっていただいたO氏から、建築の専門家とでも伝わっていたのだと思うが、控えめに簡単な説明をしていただいた後、ご質問などありませんかと問われた。

わたし以外のメンバーは、あまり知識もないこういう古建築に接するとは思っていなかったかもしれない。でもそれなりにいくつも質問が出て、しばらくお話しを聞かせていただくことができたのは、本当によかったと思う。。

その中で印象深かったことを一つ書いておきたい。
一昨日、本堂正面の写真を載せたが、そこで見るように正面五間(けん)。これは概略の大きさも表すが、柱間(はしらま)の数で、間隔は等しくなく、真ん中から外へいくほど狭くなっているが、柱は合計六本(手前に並ぶ向拝の四本柱ではなく奥の建具のところ)。奥行き方向の写真はないが、やはり五間で、方(ほう)五間の建物。

平面図を見ると寸法的にもほぼ正方形だが、正面から見て、左右両端の狭い間(ま)だけが表から奥までずっと、格子の壁や建具で中央三間(けん)の内陣とは区切られている。下の写真はその内陣で、フラッシュを焚いてないのでぶれているが、この右側に格子の壁がある。
円成寺内陣
写真を撮っておらず残念だが、この左右にある細長い間は、奥行き方向に右は三つ、左は四つにさらに壁で区切られている。最初に回ったときは、こんな風になっているのかという単純な印象しかなかった。でもこのとき誰かがどうしてこうなっているかと質問し、それに対するご住職のお話しがとても興味深いものだったのだ。

文献などで残っているわけではないのかもしれないが、ここは中世の時代には、内陣で催された仏事の「イベント」のときに、(多分)高貴な参拝者のために用意された、特別な祈りの部屋だったのではないかというお話しだった。

これは、現代に生きる若い人たちにも直感的な理解を与えたようで(もちろん私も)、油の灯具やロウソクしかなかった時代に、あたりの深い漆黒の闇を背景に、夜を徹して行われた多数の僧たちの、熱気を帯びてはげしい祈祷の声や所作の面影がまるで夢のように、でもくっきりと格子の向うに見える映像として、眼前に彷彿する思いがしたのだった。一同、お話を聞いてから、再度本堂を見に行ったのはいうまでもない。

もうかなり以前、井上靖氏が東大寺二月堂のお水取りの深夜の行に立ち会われた文章を読んだことがあるが、それを不思議なくらい克明に思い出した。

奈良の古建築-10:円成寺-3

前回書いた春日造りで現存最古の国宝遺構は、春日堂・白山堂というペアのお堂で、間を一枚の壁でつながっている小さな社殿。まったく規模が違うが屋根の形式としては本堂と同じで、春日大社の奥院とも呼ばれたこの円成寺は、本堂さえも春日造りを参照して造ったということのようだ。

小舞仕立ての軒裏は、住宅(屋敷)起源と書いたが、もしかすると神社かもしれない。ただ多分日本での考案ではなくて、やはり外国からの移入だったろう。いずれにしても日本では仏教系ではないのは確かで、本堂の正面中央の突き出した庇部分(向拝(こうはい))は、仏堂標準の繁垂木になっているものの、両脇の軒裏の小舞の雰囲気もあいまって寝殿造りの面影を感じるのだろう。

ただ、ここまで書いてきて思うのは、昨日今日の記事は、屋根の形状がある程度分かっても、ほとんどの人がよく理解できなかっただろうということ。切妻型の屋根は日本人にとっては基本形で、もっとも重んじられる形だ。この屋根を持つ建物は、古代には「真屋(まや)」ということばで呼ばれたりした。だから伊勢神宮をはじめ、神社の屋根は基本的にこの形。春日造りももちろんそうで、妻入(つまいり:屋根の三角が見える方が正面)だが、その正面に向拝(庇)がつき、それが屋根と一体化してまるで入母屋型になっている。

ここまでなると、どうなっているのか、実はわたしだってよく分からないくらいなのだ。日本の伝統建築のことを調べていて、本当に驚いたことの一つは、屋根の造形に対する異常とまで言っていいくらいのマニアックなこだわり方だ。古建築に対して真正面から向き合うにつれて、古代から現代にいたる遥かに長い時間は、退屈な歴史でしかないのだろうと思っていたこれまでの予想をみごとにくつがえされた。ゆっくりではあるが切磋琢磨し、熟成し、静かな革新を続けてきたことがよく分かる。その感動や感想は、ある程度たまるくらいの量になってきたので、これまでのも含め、近いうちにブログの新たな「カテゴリー」としてまとめなおすつもり。まあゆっくり書いていきたいと思う。

奈良の古建築-9:円成寺-2

円成寺-3
円成寺の続きだが、今日はちょっと専門的な話しになる。下の写真は上の正面左手のカドの部分の軒(のき)を見上げたところ。「隅木(すみぎ)」がない。外観は入母屋(いりもや)の屋根の形だが、そうだとすれば普通は軒の部分は寄棟(よねむね)型になるので、カドの柱から写真手前方向の45度に支えの梁(はり:これを隅木という)が勾配に沿って出てきているはず。ここの軒裏だけを見れば伊勢神宮のような、もっともシンプルな切妻(きりつま)型の納まりになっている。

(入母屋、寄棟、切妻など、ここで説明すると煩雑なので、WEBで「屋根の形」とでも打って検索してください。難しい概念ではなく、一般用語にも近い言葉なので簡単に分かると思います。)
円成寺-4
でもこれを知ったのは、わたしも西澤文隆氏の「日本名建築の美」という本を帰ってからあらためて開いてのこと。隅木がないと書いてあるのを読んで、「ほんまかいな!うそやろ。」から、撮ってきたこの写真を見て、「ほんまや・・・。」となった次第。

さてこの写真で屋根を支えているようにみえる、屋根勾配に沿って規則的に並んでいる比較的細いたくさんの木材がある。カドだから左上方向と右下方向のニ方に、壁頂部の軒桁(のきげた)から延びているのが分かると思う。この部材を「垂木(たるき)」という。

でも、写真右が正面方向だが、左上にある側壁がわの垂木と、右手正面側、少し中に入ってからだが、そこに見える垂木とはかなり様子が違う。写真右下部分に見える垂木の方は、かなりピッチが細かい。これは「繁(しげ)垂木」と呼び、本格的な仏堂ではこれがスタンダードな様式だ。

それに対して写真上部、手前左側に下りてくる垂木はピッチがまばらで、しかもさらに細い部材が直交してその上に載り、同じくらいの間隔で水平に走っているのが分かると思う。この部材を「小舞(こまい)」と呼ぶ。こちらは近世書院では、軒裏のスタンダードの形式。

書院といえば住宅屋敷の発展形だから、その様式が混在しているのは面白い。さらに切妻型の屋根が基本になっているのは、仏殿としては見たことがなく、さらに不思議だ。

まあ、この本堂は重要文化財の指定を受けているが、円成寺には国宝指定のものがほかにいくつかある。建造物にもあり、それは奈良市内にある春日大社の古い社殿。たしか鎌倉初期のもので、春日造りのもっとも古い遺構だそうだ。今も続く伊勢神宮の式年造替のように、神社は定期的に建替えることが普通だったようで、その時代の不要になったものがここに移築されたそうだ。

今日はこの辺にしよう。次回も円成寺。

奈良の古建築-8:円成寺

あっという間に一週間以上たってしまった。円成寺からあらためて。
ここと次の長弓寺は、わたしだけの提案。じつは現在、仕事で寺院の設計に取り組んでいて、参考のために古い寺院の実測図などを見たり、古い木割書や古建築に関する書物を読みふけっている。その中で興味を引いた二つを入れたのだが、欲張って二つも入れてしまったのは大きな間違いだった。スケジュールがあまりにタイトになってしまい、それぞれを咀嚼してゆっくり味わう暇などなく、他の人たちには申し訳なかったと反省している。
円成寺-1
さて、円成寺は、あるつながりで参考になりそうな情報を得たので、一応アポイントまでとってたずねた。まあおかげで時間もそうずらすわけにはいかなかった。

ただ、やはりこういうあまりに伝統的な造形は、若くて建築設計を志している人たちにはピンとくるところが少なかったようだ。古建築に若い頃から興味があった私でさえ、古代のいくつかの傑作をのぞけば、近世の端正な書院や数奇屋ならついていけても、軒下に「組物(くみもの)」の詰まった折衷的「和様」の建築となると、残念ながら素直に向き合うのはなかなか難しいというのが正直なところ。強烈なスタイルの臭いが先に鼻についてしまい、そこにあるはずの芳しさまで容易にはたどりつけないのだ。

一番の見所と思う写真の本堂は、1466年に旧本堂と同じ規模と様式で再建されたという。もはや室町時代で、それも中期というか戦国時代の直前になる。この本堂を「寝殿造り」という記述がWEBに散見するが、昔(鎌倉初期?)のものと同じ様式で再建されたというのが本当ならば、古代の寝殿造り空間の雰囲気を今に残している貴重な例だと思う。
円成寺-2
上の写真で見てもわかるように、正面の軒の空間が全体スケールのわりにかなり低くて、用途は不明だが両脇にある一段高くなった「舞台」のたたずまいを見ても、寝殿造りという説明に素直にうなずけるところだ(ちなみに現在の京都御所になると、丈が高く、あまり平安時代の住宅という気分は感じられない。江戸初期の徳川権力の威を借りた武家書院の変種という方が適当だろうと思う)。

奈良の古建築-7:円成寺と田原

慈光院に対して、ここではページを費やしてしまったが、当日は次の予定があったので、あまりゆっくりとできなかったのは残念だった。拝観後、門前の駐車場に面した小さな喫茶店で昼食をすませ、あわただしく次の予定地である円成寺(えんじょうじ)に向かった。

この日は天候がいまいち。幸運にも見学の間に強く降ることはなかったが、夕方まで降ったりやんだり。慈光院を出てから東に流れながら北上。奈良市内に入って、東大寺の国宝「転害門(てがいもん)」の正面を左に折れ、少し北に上ってから東に右折。雨に濡れてみずみずしさのきわだつ新緑の山中のくねった道を登坂した。奈良市中から見て東の春日山の裏手に広がる高い平地に出ると、まもなく円成寺。そこはもう柳生の里の入口あたりだ。

余談をはさむ。
ここの地名は忍辱山(にんにくせん)町という。寺名も正式には忍辱山円成寺。あと菩提山(ぼだいせん)正暦寺という寺もあり、ほかにもすでに寺はなく地名しか残っていないが、鹿野苑(ろくやおん)と、あともう一つあって(名前を忘れた)、四つとも平安時代に創建された寺院の山号。皆聞きなれない名前だが、すべて直接釈迦に由来するものだ。

さらに余談だが、実は自分の母の里が、この円成寺から真南に3キロほど行ったところで、2007年カンヌ映画祭でグランプリをとった「殯(もがり)の森」という映画の舞台として一躍有名になった「田原地区」。山深い里だが、ここには奈良時代末の光仁天皇陵や、古事記の編纂者である太安万侶(おおのやすまろ)の墓があり、昨今は観光バスも来る。

東大寺あたりを起点にすると円成寺は、東大寺の東にある春日山を北に迂回して東へ行ったところだが、田原地区はその春日山を逆に南に迂回し、東に登ったあたりになる。そしてそのとき東に折れるあたりの地名が上に書いた「鹿野苑」だ。その名のバス停があり、幼い頃は遊園地でもあるのかしらん、少し成長してからも、温泉か料亭でもあるのだろうかと思っていた。とにかくちょっと不思議で魅惑的、自分にとっては長い間謎のような名前だった。ちなみに田原地区から、さらに同じくらい山中を南下したところに菩提山正暦寺がある。

田原地区は、映画をご覧になった人は分かるが(自分はまだビデオで前半しか見ていないけど)、いまだに土葬。わたしも自分の親戚の葬儀で、何回か葬連(そうれん)行列に加わったことがある。一番遠い記憶はまだ屈葬で、樽のような棺桶だった。村の墓地まで棺桶を引いていくのは人力で、前後に行列がつく。棺桶を載せる木製車輪の台車は村所有だが少し古いもので、今の長方形の棺桶だとちょっとはみ出した感じになってしまう。この葬連行列には、持ち物や衣装など、いろいろと不思議な風習があって、大学院生だったころ、民俗学的にはとても興味深い行事なんだろうなと思った記憶がある。

余談が長くなった。今日はこの辺で