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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

建築見学会-2 苔寺

苔寺の庭-3
一昨日の続き。
当日の動きとしては、まず阪急京都線で梅田から「水無瀬」へ。そこから「桂」を経て嵐山線「松尾」で降り、苔寺(こけでら)まで歩いて往復。帰途、駅前の松尾大社にもちょっと寄ってから電車で「桂」駅まで戻り、最後の桂教会というのがスタッフのG君がたててくれたスケジュール。

さて水無瀬をあとにして一路苔寺へ。途中松尾駅近くの蕎麦屋で昼食をとり、20分くらい歩いて到着。建築や庭園の調査などもされていた建築家の西澤文隆氏による実測図を資料としてみんなに配布し、自分ももちろん見ていたが、やはり図面では実際のことは分からない。

当時のアプローチ通路は閉鎖されていて、大回りに図面の範囲にはない西の方の門から入った。事前の予約が必要で、約束の午後一時ちょうどに行ったが、道々、回りには白人ばかりたくさん歩いていて、団体客らしい。よく分からないが、スウェーデン語みたいな言葉やイギリスの下町風の発音などが聞こえてきて、いくつもの団体が混じっているようだった。

門を入ると、最近できたような(といっても20年くらいはたつか)大きくて豪勢な感じの書院風の本堂らしき建物が出てきて、おまけにそこに、すでにおびただしい人々が上がっているのを見てびっくりさせられた。ひなびたような景色を想像していたのだが、あまりに自分がうかつだったようだ。脇の看板に世界遺産と書いてあって、はあ~、なるほど!という感じであった。

ただ、最初に写経を「させられる」というのに多少違和感があって、座卓が無数に並んだ脇の板の間に座って始めたものの、薄墨の字をなぞればよいのだが、申し訳ないが途中からは適当に書いておしまいにした。さすがに数日前にここに書いたばかりの莫山先生の姿が頭に浮かんできて、「おまえはまだそんな風にやっとるんか~。ほんまにしょうないやっちゃな。」みたいな顔をされていた。でもやっぱりほほえんでおられたが。多分まだ遠くにまでは行かれず、関西におられたのだろう。

終わると中央の仏壇の前の台上に、焼香のときのように順番に並んで拝みつつ重ねていく。私の前の白人達も一応書いていて、まあほんの最初の数行だけだったが驚いた。意味も書き順もまったく分からないのだから。また他のメンバーは、みんな私より若いのに、意外にもそれなりに真面目にやっていて、外で少し待たされた。

みんな揃うのを待って広大な庭の見学に出向く。これ以降は自由に見て回れるというのはよかった。でも肝心の湘南亭のところへ行くと、障子や建具が閉まったままで残念だった。確かに庭が質、量ともにまったくのメインであり、こんな古びた建物に興味を持つ人は少ないだろう。重文といっても単なる庭の添景(てんけい)でしかないのは確かで、あらかじめとくに頼んでみるべきだったと思ったものの、時すでに遅し。あとで、メンバーの一人が開けてほしいと頼みに行ったが、「開けておくと動物が入るし、今日は手が足りないので無理」と連れない返事だった。
湘南亭-1
湘南亭-2

最初の雰囲気が予想と大きく違ったこともあり、気分がトーンダウンしたが、ふてくされていても仕方がないので、庭の見学に戻った。だが庭自身の感想を率直に言えば、確かに世界遺産の名に恥じない、本当に大きくてとても豊かな庭だったと思う。その思いは出てからもさらに強くなってきて、多分今もまだ続いている。
苔寺の庭-1

庭で印象的だったのは、最後の方の上段の庭に出てきた石組み。ここにかなり古いものが残っているというのを読んだ覚えがあるので注目したが、予想をはるかに超える大きさで、まったく石だけで今まで見たことのないような異様な迫力があり、本当に夢窓疎石の手によるものかもしれないと思ったくらい。龍安寺は別格として、単なる石組みだけを見て率直に感動したのは、自分にとっては初めてのことだった。
苔寺の庭-2

でも今月は本当に見学会続き。これの前にも新築の現代住宅に行って、なかなか面白かったし、今日も一ヶ所行ってきた。これは本当に底抜けにすばらしかったものの、明日もまた別の所へ行くので、ゆっくり咀嚼(そしゃく)する間がないのが本当に残念だ。だからどこまで書ききれるか分からないような感じになってきたが、まあ書けるだけは書いていこうと思う。

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建築見学会-1 水無瀬

先週末、以前からたまにやっている仲間同士の建築の見学会へ、久しぶりに行ってきた。別に予定を定めているわけではないが、何となく一年に一回くらいのペースで来ていて、今回で三回目になる。以前の二回ともここに書いているが、最初が「如庵と明治村」。二回目は去年の「中家住宅・慈光院・円成寺・長弓寺」だった。

今回の最初は、大阪府では先の敗戦まで唯一の神宮であった「水無瀬(みなせ)神宮」。そこから、前回に次はここに行こうと決めていて、当日のメインターゲットである通称苔寺(こけでら)と呼ばれる西芳寺へ。そして最後は、古建築ではなくて近代建築。日系アメリカ人で木工家具で世界的に有名なジョージ・ナカシマ氏の設計で、彼の多分唯一の建築作品である「桂カトリック教会」。前回無理して四つ回り、食べすぎてお腹にもたれるような状態になったので三つにしたが、これでも八分目どころかちょうど満腹といったところだった。

最初の見学会で国宝の茶室如庵を訪れ、二回目のも茶人片桐石州の慈光院が入っていて、これまでも毎回茶室を見てきた。今回も水無瀬神宮で「燈心亭(とうしんてい)」、苔寺にも「湘南亭(しょうなんてい)」があり、わたしも段々おもしろくなってきていて、今回はこの二つをもっとも楽しみにしていた。

まず最初の水無瀬神宮は、大阪府と言ってもほとんど京都との境で、後輩が住んでいるので知っているが、すでに電話のエリア局番も京都と同じ075だ。国宝の茶室「待庵」のある京都府大山崎の妙喜庵とは2キロも離れていない。

ここの燈心亭は期待に違わずとてもすばらしかった。ただ最初の見学会で行った如庵で中に入って座れた感激が強烈だったので、多少期待していったが、残念ながら外から観るだけだった。でもみんなにも資料として配った堀口捨己氏の解説も読んでいたが、コンパクトで(当たり前か!)凝縮された本当に宝石箱のようなすてきな空間であった。

何というか、茶室というのはいわゆる建築の「機能」が行為の「作法」として、そこにほとんど実体化しているのではないかと思われるほど強く感じられて、それがその空間に、極限にまで凝縮されたような構築性ときびしい緊張感をもたらしていると思う。

残念ながら燈心亭では撮影禁止で、下の写真はやはり国の重文に指定されている書院。江戸時代初期のものだが、おそらくは桧皮葺だった屋根が瓦になっているのが残念。この右手の奥に燈心亭がある。たまたま翌日はお祭りだそうで、書院でも花道の催しものをやっていた。あちこちに幕がかかっていたが、おかげで上にあがることもでき、薄茶の接待までいただけた。
水無瀬神宮 書院

弓道の試合

息子が大学で弓道部に入っている。京都の三十三間堂であった新成人のための「通し矢」のことは、前にここに書いた。でも彼も今や三回生になって中心的な幹部の一人として活躍しているが、今まで試合とかまでは見る機会はなかった。橋本知事にたたかれてばかりいる大阪府立大学に通っているが、弓道部は二部リーグ。今年のリーグ戦の本命は一部から去年落ちてきた京都大学で、もともと一部と二部ではかなり実力差があるそうで、まず二部の優勝は京大で固いやろうと思っていたようだ。

ただなんと、実は先日ここに書いた京大建築の90周年式典の日に、ちょうど京大で試合があったそうで、あとで同じ時に両方京大キャンパスにいたと分かってびっくりした次第。まあ弓道場は農学部の方らしいので、すぐ近くにいたわけではないが。もちろん試合は順当に負けて帰ってきた。

ところがそのあと、その強豪京大を新興の大阪市大が破って少し話しがややこしくなった。彼の府立大学も二部の強豪関西大学を破ったことで、優勝の目まで出てきたのだ。その市大に勝って、京大との再戦に勝てば、一部との入替え戦にまで進むことができる。そして大阪市大の弓道部はまだ歴史が新しく、今年も府立大学は二回戦って二回とも勝っているそうで、その市大戦が先週の日曜日にあるというので、その数日前の夕食のときに見に行く!と宣言してしまった。嫌がるかなと思ったら、余裕の表情だったので、否が応でも見に行かざるをえないはめになってしまった次第。

まあ府立大学のキャンパスも見たことがなかったので、前から一度行きたいと思っていたし、当日は天候もよくて見学日和だった。広いといううわさはずっと昔から聞いていたが、本当にゆったりしたキャンパス。建築はコンクリートに吹き付け仕上げという思い切りローコストのものが多くて、他の大学に比べると見劣りするが、スペースの使い方が贅沢で、何より緑が多いのが本当にすばらしかった。大木が林立していて、場所によっては森みたいになっているところもあり、正直、京大よりもずっといいと思ったくらい。こういう感じなら散歩して恋が芽生えることだってあるだろうなと「しょうむない」ことを歩きながら考えていた。

そんなことをしているうちに弓道場についた。聞いていたように観客席などはなくて、まったく弓道場のみの施設。脇を幅3メートルほどのグリーンベルトをはさんで構内道路が走っていて、そこから観る(見える)だけ。屋根は射手が立ち、後ろに審判がいる場所と、的のところにしかない。板床は前者のところにだけ張ってある。

さて、行く前は何となくシーンとして息詰まるような熱戦をイメージしていたのだが、とんでもなかった。行ったらちょうど府大が射る番で、四人並んでいる中で息子が一番奥にいたが、何ともすさまじい声があたりに充満している。何やねんこれは!という感じで、最初は違和感があったが、そのうち慣れてきて、やってる方は面白いかもと思いだした。

市大の番になっても、やはりかしましい。ただ、市大は的に当らないと言わないと決めているようで、最初の一本が当るまではまったくシーンとしていた。ただ言い出すと同じように思い切りうるさく、何を言っているのかまったくわからない。「わあわあ、わいわい」というくらいにしか聞こえない。

あとで聞くと、それなりに決まっているそうで、府大の場合は「しっかり行きましょう!」「がっちり行きましょう!」「じっくり行きましょう!」という三つしか基本的にはないそうだが、引いている以外の射手や応援も含めて口々に勝手に叫んでいるので、聞いているほうはまったく「ワーッ」と言う喚声くらいにしか聞こえない。市大は、府大の所でするときに対抗上叫ぶようになったそうだが、何を言ってもいいのだそうだ。まあほとんど違うようには聞こえなかったが。

ただ、私大など町中にあるようなところだと、そんな大声を出すわけにいかず、シーンとしてやっているところも多いそうだ。そしてそういう所へ試合に行けば、郷に入れば郷に従うで、府大もやはり黙って射るそうだ。

スコアは構内道路からは全く見えないのでまったく分からず、試合時間も4時間近くあると聞いていたので、一時間半ほど見ただけで帰ってきた。カメラを持っていなかったのが残念だし、あとで行くところもあった。でも緊迫した雰囲気や射手の一連の所作(とても静かで、あたかも輪唱のように各人がテンポをずらしながら演ずるが、流れるようでなかなかうるわしい)など観ていてとても面白かった。四人が組になって射手になり、それぞれが連続にずっと続いて射るので、観ているほうも相撲なんかより退屈しない。TV中継でもあれば見たいと思ったくらいだった。

でも残念ながら試合は負けてしまったそうだ。

榊莫山先生の思い出

榊莫山(さかき ばくざん)先生が亡くなった。当年84歳で、今月の三日だったそうだ。私にとっては、昔親しくしていただいた親戚のおじさんの突然の訃報を聞いたような感じがして、自分でも意外なくらいショックが大きく、ここに少し先生との思い出を書いておきたい。

先生は、私が小さかったころ、近く(天王寺区味原町、今なら歩いて7、8分のところ)で書道の塾を開かれていて、たしか私がまだ幼稚園の時に、母に連れられて通いだした。その頃のことは、ぼんやりとしか記憶にないが、場所は、ご自分の住まいである二階建ての、そう古くはない小さな洋風の木造家屋で、多分その二階の書斎の一画を使っておられたのだと思う。めっぽうたくさんの大きさや種類の違う筆が、整然と数段のはしご状の横棒にかけられていたり、座卓の上には形や大きさの異なるいろんな硯(すずり)が所狭しと並んでいて、珍しく神秘的でもあったその光景をわずかに覚えている。

市立真田山小学校に入学すると、先生は学校の美術と書道の教師もされていた。小学校へ上がる頃か、とにかく最初は書道だけだったのが、少し遅れて絵画教室へも行くようになった。両方の塾をされていたのだ。もうその頃は自宅ではなくて、府立高津高校の裏門の脇に今もある、平屋の小さな公民館のような建物を借りて塾をされていた。書道はたしか四年生くらいのときにやめたが、絵画教室は卒業までかどうか分からないが、六年生くらいまで行っていた。書道をやめたのは、今でも毛筆は苦手だし、あまり面白くなくなったのかもしれない。塾ではあまり具体的な教えはなく、ほとんどほったらかしのような感じだったと思う。書道でも上手な字を書けとか、書き方を教わったような記憶はまったくない。今から思えば、ゆったりとした姿勢で子どもたちの個性を眺めておられたのだと思う。

小学校の授業でも、美術と書道を教わった。でもこれは教師の仕事だから、通信簿に成績がついてくる。覚えているのは、小学校の高学年のとき、夏休みに絵画の宿題があった。小学校までは、夏休みになるとずっと母の田舎へ行っていたので、宿題は家に戻ってから。このときも大慌てで他の宿題を片付け、時間がなくて絵画の宿題はどうしようかと考え、結局手軽だから、家の裏の小さな坪庭の池の景色を描くことにした。ただ遊んでいたのか描くのが夜になってしまい、それでも蛍光灯をつけて、急いで無理やり描いた。

その画は今でもぼんやり覚えているが、自分では意外にうまく描けたかなと思いつつ、「やはり蛍光灯の光だから色はあかんやろなあ」と思ったのを覚えている。水の色は青色にとか、頭で考えて絵の具をしぼったのだ。いつも図画の点だけは成績がよかったのだが、このときはかなり悪かったのをよく覚えている。まあ、これだけ記憶に残っているということは、自分でもこれではまずいと思っていたのだろう。

小学校の旅行で和歌山の白浜温泉に行ったことがあったが、そこの広場に先生の造られた彫刻(女性の裸の立像)があって、脇で売っていた温泉卵の記憶とともに、とてもびっくりしたのを覚えている。いつだったか小学校の中庭にも先生が造られた石造の碑ができ、校門脇の壁にかけられた学校名の書かれた銘板も先生の字で、わたしにとってはあの書体は見慣れたものだった。

でも中学校に上がると、まったく先生との縁は切れてしまった。その後、大学に入って京都で下宿生活を始めてからだったと思うが、三条河原町の朝日会館で、先生の個展が開かれることを知って見に行ったことがある。そう広くはない会場だったと思うが、そこに先生もおられた。「何となくどっかで見たことのあるようなやっちゃな」みたいな眼でこっちを見られた瞬間があったが、気恥ずかしくて結局声もかけられずに会場をあとにした。今となっては、少しでもお話すればよかったと悔やまれる。

私にとっては人生に悠々と出てこられて、ついに悠々と去っていかれたという感じがあまりに強くて、あとは何と言ったらよいか分からない。ここに心よりご冥福をお祈りする次第です。