
この21日の木曜日、奈良の大安寺というお寺であった「正御影供(しょうみえく)」という行事に参列してきた。ここは、遠く聖徳太子にまでさかのぼる由緒があり、現在の地では、天平時代の初め西暦716年の創建(三論宗)と言われているが、はるかな歴史の曲折を経て、今は真言宗の寺院になっている。でもその開祖、弘法大師空海は若くしてここで修行し、後に別当も一時勤められたことがある。だから空海との直接の縁も深く、そのご命日を記念して毎年行われている行事だ。ただ私が参列させていただくのは今回が初めて。
「正御影供」の中の「御影」というのは弘法大師の肖像画のことで、当日も本堂に掲げられていたその画幅に、命日のお「供」えをするというのが、この行事の主旨だそうだ。
午前中、大学の講義があったので、始まる午後一時に少し遅れて着いたが、本堂の一番後ろのところの1人分の余白に、かろうじて座ることができた。当日の行事の詳細は省くが、儀式や朗読が一通り終わったあと、「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の詠唱が始まったが、それには堂内に参座していた100人弱の老若男女の方々が一斉に唱和され、これには本当にびっくりした。
ちょっとうろたえて左右を見回すと、ほとんどの方々の口元が動いている。ただその地の底からうなるような朗々たる響きには、和声というか共鳴というか、何ともいえないような、一種動物的な迫力と美しいとさえ感じるような音楽的な響きもあって、聴いているうちに驚きは徐々に心地よく暖かい気分に変っていった。

そのあと引き続き場所を変え、境内の広い庭で、これもこの日の恒例だそうだが、「柴灯護摩(さいとうごま)」の行事があった。数年前、初めてこの「さいとうごま」のことをお聞きしたとき、「ごま」はすぐに護摩と分かったが、「さいとう」は???で、「斉藤」かしらと思い、鎌倉武士との関係でも何かあるのかしらんと頭をひねったことがあった。その後調べて漢字も今は分かっているが、今まで現場を見ることはなかったので、興味深く拝見させていただいた。

ここまでの説明が長くなったので行事の詳細は省き、写真数葉で代わりとするが、ここでも途中から「般若心経」の群唱が湧き起こり、私にとっては、やはりなかなか印象的で感動的なものだった。


さて今日これを書こうとした目的についてようやく書く準備が整ったようだ。それは、これが何よりも「火」の儀式であったということによる。これはまさに火による「浄化」だと感じてすぐに念頭に浮かんだのは、東日本大震災のあの大津波のことだった。
加えて、あとで火渡りの行事もあり、法体(ほったい)の人たちのみによる、少し悪く言えばパフォーマンスのような儀式かと勝手に予想をしていたのが、そうではなく、最後には参列者自身が行列をなして渡っていくのを見て、素直に共感できたと同時に、あまりに不躾(ぶしつけ)という反響を恐れながら書くが、これは今回の被災者の方々にとってこそ、もしかすると本当に「き(利、効)く」ようなものかもしれないと強く感じたのだった。


バシュラールという、イメージの現象学という言葉で一世代前にもてはやされたフランスの思想家がいるが、たしか「水の現象学」や「火(炎)の現象学」とうようなタイトルの本も出ていた。私はそれほどは知らないが、「水の浄化」と同時に「火の浄化」についても語っていたのではなかっただろうか。きっと語っていただろう。火と水は、イメージはもとより直観的に正反対なものだ。こういうような象徴的な領域における「癒し」については、現代ではあまり意識に上らないかもしれないが、人間の魂(たましい)にとっては、きっと必要なことの一つではないだろうかと考えた次第。

「正御影供」の中の「御影」というのは弘法大師の肖像画のことで、当日も本堂に掲げられていたその画幅に、命日のお「供」えをするというのが、この行事の主旨だそうだ。
午前中、大学の講義があったので、始まる午後一時に少し遅れて着いたが、本堂の一番後ろのところの1人分の余白に、かろうじて座ることができた。当日の行事の詳細は省くが、儀式や朗読が一通り終わったあと、「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の詠唱が始まったが、それには堂内に参座していた100人弱の老若男女の方々が一斉に唱和され、これには本当にびっくりした。
ちょっとうろたえて左右を見回すと、ほとんどの方々の口元が動いている。ただその地の底からうなるような朗々たる響きには、和声というか共鳴というか、何ともいえないような、一種動物的な迫力と美しいとさえ感じるような音楽的な響きもあって、聴いているうちに驚きは徐々に心地よく暖かい気分に変っていった。

そのあと引き続き場所を変え、境内の広い庭で、これもこの日の恒例だそうだが、「柴灯護摩(さいとうごま)」の行事があった。数年前、初めてこの「さいとうごま」のことをお聞きしたとき、「ごま」はすぐに護摩と分かったが、「さいとう」は???で、「斉藤」かしらと思い、鎌倉武士との関係でも何かあるのかしらんと頭をひねったことがあった。その後調べて漢字も今は分かっているが、今まで現場を見ることはなかったので、興味深く拝見させていただいた。

ここまでの説明が長くなったので行事の詳細は省き、写真数葉で代わりとするが、ここでも途中から「般若心経」の群唱が湧き起こり、私にとっては、やはりなかなか印象的で感動的なものだった。


さて今日これを書こうとした目的についてようやく書く準備が整ったようだ。それは、これが何よりも「火」の儀式であったということによる。これはまさに火による「浄化」だと感じてすぐに念頭に浮かんだのは、東日本大震災のあの大津波のことだった。
加えて、あとで火渡りの行事もあり、法体(ほったい)の人たちのみによる、少し悪く言えばパフォーマンスのような儀式かと勝手に予想をしていたのが、そうではなく、最後には参列者自身が行列をなして渡っていくのを見て、素直に共感できたと同時に、あまりに不躾(ぶしつけ)という反響を恐れながら書くが、これは今回の被災者の方々にとってこそ、もしかすると本当に「き(利、効)く」ようなものかもしれないと強く感じたのだった。


バシュラールという、イメージの現象学という言葉で一世代前にもてはやされたフランスの思想家がいるが、たしか「水の現象学」や「火(炎)の現象学」とうようなタイトルの本も出ていた。私はそれほどは知らないが、「水の浄化」と同時に「火の浄化」についても語っていたのではなかっただろうか。きっと語っていただろう。火と水は、イメージはもとより直観的に正反対なものだ。こういうような象徴的な領域における「癒し」については、現代ではあまり意識に上らないかもしれないが、人間の魂(たましい)にとっては、きっと必要なことの一つではないだろうかと考えた次第。

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