
先日のお盆の話の続き。
最初に書こうと思っていたことが、夏キャンプのことを書き始めて長くなり、尻切れトンボになってしまったので、冒頭のお盆の感想のことが分かりにくくなってしまった。
印象的な盆になったというのは、8月に入り、まず長崎や広島の原爆忌があって、盆の最中には戦死者の慰霊祭があった。いつもならあまり印象にも残らないこれらの行事の記事やニュースに、今年は注目もし、その意味について考えさせられ、とにかく心に応えたということだった。もちろん3.11の地震と大津波、そして引き続いてあらわになったフクシマの惨状という一連の悲劇が大きな背景になっているわけで、「鎮魂」や「慰霊」というような言葉が、そのままの意味で、直接的に心に響いてきた。今年の夏のこういう色合いは、もはや死ぬまで私には忘れられないだろう。夏は鎮魂と慰霊の季節として毎年、回想し、送る火のゆらめきとともに思い出すだろうと思う。
そしてそういう雰囲気の中で目覚めに聴いたヒグラシの大合唱は、本当にこの世のものとは思えないようなものだったのだ。
最初に書こうと思っていたことが、夏キャンプのことを書き始めて長くなり、尻切れトンボになってしまったので、冒頭のお盆の感想のことが分かりにくくなってしまった。
印象的な盆になったというのは、8月に入り、まず長崎や広島の原爆忌があって、盆の最中には戦死者の慰霊祭があった。いつもならあまり印象にも残らないこれらの行事の記事やニュースに、今年は注目もし、その意味について考えさせられ、とにかく心に応えたということだった。もちろん3.11の地震と大津波、そして引き続いてあらわになったフクシマの惨状という一連の悲劇が大きな背景になっているわけで、「鎮魂」や「慰霊」というような言葉が、そのままの意味で、直接的に心に響いてきた。今年の夏のこういう色合いは、もはや死ぬまで私には忘れられないだろう。夏は鎮魂と慰霊の季節として毎年、回想し、送る火のゆらめきとともに思い出すだろうと思う。
そしてそういう雰囲気の中で目覚めに聴いたヒグラシの大合唱は、本当にこの世のものとは思えないようなものだったのだ。
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