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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

鶴見緑地キャンプ

週末、いつものボーイスカウト活動で鶴見緑地のキャンプに行ってきた。
27日の日曜日は、新入スカウトを募る体験活動も兼ねた団の懇親会。二ヶ月くらいかけて企画を練ってきたもので、最終打合せも兼ねて前日から数人の団委員たちで泊り込んだ。いつもと違いまだ前夜で、スカウト(子ども)たちもいないので、大人の懇親会も兼ねようと、酒を飲みながら企画に関するクイズやヒントなど、アイデアを自由に出しあい、それもさかなにしてみんなで飲もうというキャンプだった。
翌朝は六時起きで夜中も寒かったが、深夜二時ごろまで、あまった薪をふんだんに使って焼肉をし、思いっきり大きくしたかまどの火に当りながらの楽しい酒盛りになった。少し離れたとき遠めに見ると、キャンプファイヤーの火のようだと思ったくらい盛大に薪をくべた。

鶴見緑地2011

翌朝の体験活動は、同じ鶴見緑地の中でも、本部としたキャンプ場から少し離れた国際庭園が舞台。先日の祝日に下見に行ったが、まったく花博の遺構のような雰囲気で、あまりメンテナンスの予算がないようだった。だからかもしれないが無料で、中国のパビリオンのように、老朽化が進んで構内には立ち入り禁止となっているようなところもいくつかあった。

自分にとって印象的だったのは、ちょっと大げさだが、そこが栄枯盛衰という言葉を思い出させるような、非情な歴史的洗浄を受けているように感じたことだ。「浅き夢見し」という詩句がなつかしいイロハ歌にあるが、人間わざの浅い夢が解けて、「場所」が本来の自然に帰ろうとしているような雰囲気があちこちにたちこめていた。

そこではバブルというか、目先の利益に心を奪われて、結局、足をすくわれてしまったあわれな人間たちが行き着いた無残な様相を、少しかいま見ることができるように思う。いくつかの民家をのぞくと新しいもので予算をさいてでも残すべきと思うような建物はなかったし、強いていうなら「地形」くらいかもしれない。ただ「庭」については雨と日光という潤沢な予算を得て、それなりに胸を張っているような部分もあったが。

まあその結果、このあたりが緑に侵食されつくし、いつか大きな森になったとしたら、その方が人間にとってもはるかにすばらしいことではないかとか、とりとめもないことをぶつぶつ考えながら歩いていた。

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サクラモミジ

帝塚山大学のサクラモミジ

今朝、奈良の帝塚山大学出講のおりに撮ってきた写真。キャンパスの入口脇にある広場の桜だ。左のすばらしく大きなヤマザクラは、花の時の写真をここに出したことがあった。駅から歩道橋を伝ってそのまま校門へ入るので、広場からすると上の2階からの眺めになる。去年と同じく今年もおそらく例年に比べて暖かく、紅葉ははたしてどうなるだろうと思っていたが、校門をくぐるとこの紅葉が鮮やかに目に飛び込んできて、思わず持っていたカメラを出した。でもやはり写真ではなかなかうまく色が写らない。下はアップの写真。少しはましだろうか。

サクラモミジのUP

サクラの紅葉は、カエデやイチョウのように一色に染まるわけではなく鮮やかさでは劣るが、濃淡に加え色のバリエーションも豊富だから、情調のニュアンスが非常に幅広く、色合いもやさしいので見ていて飽きないところがある。ここしばらく寒くなったとはいえまだ暖かいが、こんな紅葉になったのは変化が急だったからだろうか。温暖化で夏は暑いものの、冬はやはり寒く、つまりは温度変化が急にならざるをえない。結果として春と秋のよい気候が短くなったのは残念だが、紅葉は鮮やかになるとすれば、多少の僥倖はあるということになるだろう。

蕪村の句

鳥羽殿(とばどの)へ五六騎急ぐ野分(のわき)かな

前回の最後に蕪村の句を置いたが、実はこの句とどっちにしようか大分迷った。この句は印象鮮明で、映画の一シーンどころか、まるごと一本にもつながるような情景的内容をもつと思う。ただこの方がより有名かもしれないが、蕪村の秋の句としてはあっちもなかなか有名だ。

でも分かりにくかった人もあったかもしれないと思い少し補足を。
あの句の「踊り」は季語で、つまりは「盆踊り」ということになる。盆が秋というと私もイメージがピンとこないところもあるが、たしかに海水浴ではクラゲが出るようになるし、そうかもしれないと思ったりもする。今では旧盆とはいえまったく夏の行事のように思ってしまうが、よく考えてみれば秋の方がやはりふさわしいのかもしれない。

まあとにかく、始まりは熱気をおびて夢のように楽しかった盆踊りも夜がふけて、踊り手も一人減り二人減り、いつのまにかもう4,5人しかいなくなってしまった。満月か暗さがつのる三日月か分からないが、それでもその朗々たる月光の下でまだゆるやかに踊っている人たちがいる。

ここからは人によって違うだろう。私は若い女たちだけで踊っているように思っていた。一種のロマンとして。でも若い男女半々くらいとすると一気に踊りがなまめかしくなり、疲れはあっても多少肩を張ったものになる。まあ句の雰囲気にはそぐわないかもしれないが。あと考えるとすれば年配の男女だろうか。余韻を楽しみ微笑みながらそれぞれ一人、月光の冥(くら)さに時おり顔を向けながら踊っている。

詩仙堂と芭蕉庵

今回も建築見学会の続き。

曼殊院を出てから歩いて南下。次の目的地「詩仙堂」に向かう。ここはほとんどの人が来たことがあったが、一人どうしても見たいというメンバーがいて、立ち寄った。TVの番組を見て行きたくなったとのこと。やはりTVの影響は大きい。今までの記憶では、庭以外にあまり印象がなかったが、今回は建物にもゆっくりと対面してきた。実は現在、伝統建築を手がけているからか、古建築に対する向い方というか見る精度が、昔に比べて格段に上がってきたような気がしている。

詩仙堂2011
さて建物は昔のひなびた住まいそのままのような数奇屋普請だが、庭への面し方など、さすがにいろいろと考えてあることが分かる。庭から見ると屋根も単純ではなく、上階に見晴らし場のような部屋もあるようで、隠れ家のようで面白く、いつか特別拝観でもしてくれないかなと思って見ていた。

詩仙堂を後にすると古建築はお終いのはずだったが、すぐ近くに「芭蕉庵」という茶席があるので寄ってみませんかという提案が出た。「金福寺(こんぷくじ)」というお寺で、入ることにしたら、なかなか興味深いところだった。
芭蕉庵-1

それは俳人で画人の与謝蕪村(よさぶそん)ゆかりの寺だったからで、彼と仲間達で、荒廃していた敬愛する芭蕉ゆかりのこの茶室を再興したという記事も、そういえばいつかどこかで読んだことがあったのを思い出した。芭蕉も滞在したことがあり、蕪村の墓もこの寺にある。ただ本坊に展示してあった蕪村の書画や、昔誰かの小説で読んだことのある幕末の村山たか女の事蹟などに気をとられ、わたしは墓の存在を知らぬままに出てしまった。あとで一人に聞かされてちょっと悔しい思いをした。
芭蕉庵-2

この後南下して京都造形芸術大学のキャンパスを見学し、あとは今出川通りを西に、百万遍の交差点付近で打ち上げ(反省会?)をやって予定は無事終了。
途中、造型大学を出たあたりで激しい雨になり、ぬれねずみになったが、打ち上げが終わった頃にはすっかり雨も上がり、夜風に吹かれながら帰途についた。記念に蕪村の句をあげておこう。

四五人に月落ちかかる踊(をどり)かな