
また一ヶ月経ってしまった。最近の読書について書いておきます。
今日、司馬遼太郎氏の「花神」を読了。主人公の大村益次郎のことは、司馬氏の他のエッセイなどでよく出てきたので、ある程度というかエッセンスはすでに知っていた。幕末から明治の物語も、他にいくつもあるから、大筋はあまり新鮮なところはなかったが、シーボルトの娘のイネとの恋についてだけは、ほとんど知らなかった。
このことは小説のなかでは伏線的な扱いだが、それをとても丁寧に彫り上げてあったのは印象的だった。とくに彼の最後のときに、彼女が江戸から急行して、ずっと看病して見取ることができたというのは事実に過ぎないのかもしれないが、運命的というか、そこには不思議なくらいに西洋的な情緒が漂い、わたしも言葉では何とも言えないくらいに良かったなと思った次第。
閑話休題
実は、この本を読むきっかけになったのは、数年前に亡くなったユング心理学者の河合隼雄氏の本のなかで、昔話の「花咲かじいさん」をとりあげておられ、それを意味する漢語として「花神」というこの小説のことに触れられていたからだった。
まあこの前の連休には、なぜか昔話かそれに関連するものばかり読んでいた。おそらくこれらの本を読むようになった直接のきっかけは、そのすぐ前に村上春樹氏の「1Q84」を読んだからだと思う。この小説は大作だが、それ自体としては、私にとってはとても面白かった。多分。
ただ昔から、私は同時代の人に、とくに本となればそれほど興味が湧かない。例えばこの「1Q84」にしても、オウム真理教事件後の村上氏の活動を知っているだけに、もちろん自分にとっても身近な事件だったから、当然それを頭の片隅において読むことになるが、それはこの作品に向かうためには邪魔なだけで、やはりいらない知識なんだと思う。
あの事件の内容について、自分のなかではまだ深く考えたこともないし、ほとんどこなれていないような状態だと思う。でもそれからの連想や何かををどうしても投影してしまい、言葉を追いながら、もしかすると勝手に他のことを読み取っているような気さえして、最後まで違和感が抜けなかった。今でも多少残念だ。だからあまりあの事件を知らないような外国の読者を、本当にうらやましく思ったくらい。読者としては距離が近すぎるということだろうと思う。
今日、司馬遼太郎氏の「花神」を読了。主人公の大村益次郎のことは、司馬氏の他のエッセイなどでよく出てきたので、ある程度というかエッセンスはすでに知っていた。幕末から明治の物語も、他にいくつもあるから、大筋はあまり新鮮なところはなかったが、シーボルトの娘のイネとの恋についてだけは、ほとんど知らなかった。
このことは小説のなかでは伏線的な扱いだが、それをとても丁寧に彫り上げてあったのは印象的だった。とくに彼の最後のときに、彼女が江戸から急行して、ずっと看病して見取ることができたというのは事実に過ぎないのかもしれないが、運命的というか、そこには不思議なくらいに西洋的な情緒が漂い、わたしも言葉では何とも言えないくらいに良かったなと思った次第。
閑話休題
実は、この本を読むきっかけになったのは、数年前に亡くなったユング心理学者の河合隼雄氏の本のなかで、昔話の「花咲かじいさん」をとりあげておられ、それを意味する漢語として「花神」というこの小説のことに触れられていたからだった。
まあこの前の連休には、なぜか昔話かそれに関連するものばかり読んでいた。おそらくこれらの本を読むようになった直接のきっかけは、そのすぐ前に村上春樹氏の「1Q84」を読んだからだと思う。この小説は大作だが、それ自体としては、私にとってはとても面白かった。多分。
ただ昔から、私は同時代の人に、とくに本となればそれほど興味が湧かない。例えばこの「1Q84」にしても、オウム真理教事件後の村上氏の活動を知っているだけに、もちろん自分にとっても身近な事件だったから、当然それを頭の片隅において読むことになるが、それはこの作品に向かうためには邪魔なだけで、やはりいらない知識なんだと思う。
あの事件の内容について、自分のなかではまだ深く考えたこともないし、ほとんどこなれていないような状態だと思う。でもそれからの連想や何かををどうしても投影してしまい、言葉を追いながら、もしかすると勝手に他のことを読み取っているような気さえして、最後まで違和感が抜けなかった。今でも多少残念だ。だからあまりあの事件を知らないような外国の読者を、本当にうらやましく思ったくらい。読者としては距離が近すぎるということだろうと思う。
スポンサーサイト

コメント:0
