

昨日の続き。
最後の三回目は、彼自身から視点を変えて、レーモンドの後継者たちということで、彼の日本の建築界に対して果たした影響や貢献についてとりあげた内容だった。途中にはさまれた番組の案内役と、土屋さんも含めた元所員たちとの対談は、私にもなつかしい参宮橋のレーモンド事務所ビルの最上階にあるメモリアルルームが舞台だった。
ここは麻布にあった木造の事務所の一部のインテリアが再現保存されている部屋で、レーモンド自身も麻布の事務所も知らぬまま入った私が、ここに再現された木造の骨組みをつくづく眺めながら、古参の人からいやというほど聞かされた(嫌と思ったことはないが)レーモンドがいた当時の事務所の風韻をあれこれ想像したものだった。確かにそのころのレーモンド事務所員の平均年齢はかなり高かった。ただ年齢以前の「おじいちゃん」もたくさんおられたように思う。だから想い返すと記憶が二重三重にたぐられるような感じで、本当になつかしい思いがした。
さて番組の第二回の内容以降戦後のデザインは、まったくライトの装飾的な影響下を脱したレーモンド自身のもので、文句なしにすばらしいと思えるような作品が多い。私の記憶にもダイレクトにつながるものばかりで、代表作の一つと言っていい名古屋の南山大学などは、自分のいたチームが彼の後を受けて仕事をしていたので、出張で何回か行ったこともある。
ただ番組の構成自体は建築家レーモンドが主役で間違いないが、こういうのにありがちな手放しの賞賛ばかりではなく、ところどころで通奏低音のように聴こえてくるのは、意外にひんやりとしてシニカルなトーンだった。名前や経歴について言わずもがなと思えるような指摘もあった。まあ日本でも彼のリバイバルはようやく西暦2000年くらいになってのことではなかったか。私などしばらく後でようやく知ったくらいで、大活躍した日本でさえそうなのだ。
それについてここで深く掘り下げているような余裕や知識もないが、一つ言えるとすれば彼自身のもつ「異邦性」だろうか。日本においては言わずもがなのことだが、さらに彼はユダヤ人で、家族全員はナチスに皆殺しの目にあっている。だから帰国しても係累はいなかった。母国と縁が薄いのはそういう不幸もあったのだが、そういうようなことが、チェコのネイティブの人たちの眼にどういう風に映るものかとなると、自分が想像できる範囲をこえる。いずれにせよ多少の屈折があっても不思議ではないのかもしれないと思うだけだ。
番組のDVDと一緒に入っていた小冊子は「アントニン・レーモンド チャーチ&チャペル 日本」という題で、大きな書店なら置いているかもしれないが、「大学など建築の教育機関に寄贈」するのが出版の目的という土屋さんのコメントが一緒にはさまれていた。あらたに写真も撮りなおされており、印刷もきれいで、小さいながらなかなか素敵な本だ。何より内藤恒方氏と土屋さん自身が心のこもった文章を書かれているのがすばらしく、レーモンドの生前を知らない私はとてもうらやましい思いがした。本当に率直な人だったんだなとあらためて思った次第。
長くなった。このくらいにしよう。レーモンドのデザインそのものについてもう少し書きたいことはあるのだが、息が切れたようだ。明日から本格的に仕事が始まるので、しばらくは無理かもしれないが、また機会をみつけて。
スポンサーサイト

コメント:0
