
今日は、先日書いた村上春樹氏の小澤征治氏との「対談?」の本について、書き足らなかったことがあったので補足を。
読後、一番印象に残ったのはカラヤンの「ディレクション」の話しだった。ひどく簡単に私の理解で言うと、音楽を造っていくときの一息の長さのようなことではなかったかと思う。まあ、あまりピントがあっていないかもしれないが、素人の私としてはそれで十分、腑に落ちるように理解するところがあった。確か若いときに買ったレコードではあまり持っていないが、いつごろからか私もカラヤンのファンになっている。その一番急所の理由を教えてもらったような気がした。
そして最初あの本を読み終えたときはよく分からなかったが、時間が経つにつれ、反芻するようにこの話しを思いだすことが多くなった。そして本の最後、スイスでの小澤氏主催の若手音楽家のセミナー?に飛び入り参加されたときのことをドキュメンタリー風に記された部分があるが、あれはまさに、このカラヤンのディレクションをかなり意識して書かれているのではないかといつか思うようになった。
まあこの推測が当たっているどうかはともかく、スイス湖畔のさわやかでやさしい風光を背景に、そこへ偶然に集められた若い人たちの間に生じた、ひそやかな音楽の芽生えと賛歌が、短期間のうちにいきいきと、そしてたくましく育っていくのを、官能的と言っていいくらいの高い調べに乗せて語っておられるのを読むのは、自分にとってなかなかすばらしい経験だった。
閑話休題
そこから最近思い出したのは、作家の井上靖氏のこと。氏には詩集も数冊あり、うろ覚えで不正確かもしれないが、確か「小説は詩の小函」というようなことを書かれていたのではないかと思う。氏の小説は短いものもあるが長編も多く、そのことを読んだときには詩と散文の間に唐突に橋を架けられたような感じで、驚きもあってしばらく考えてみたが、作家でもない私には結局よく分からずじまいだった。
もちろんさっきの村上氏の話しとはかなりトーンも違うから、一緒くたの話しにするのはかなりまずいようにも思うが、そういう「大きな」散文もあるのだということを、少しは理解できるきっかけにはなったように思う。
読後、一番印象に残ったのはカラヤンの「ディレクション」の話しだった。ひどく簡単に私の理解で言うと、音楽を造っていくときの一息の長さのようなことではなかったかと思う。まあ、あまりピントがあっていないかもしれないが、素人の私としてはそれで十分、腑に落ちるように理解するところがあった。確か若いときに買ったレコードではあまり持っていないが、いつごろからか私もカラヤンのファンになっている。その一番急所の理由を教えてもらったような気がした。
そして最初あの本を読み終えたときはよく分からなかったが、時間が経つにつれ、反芻するようにこの話しを思いだすことが多くなった。そして本の最後、スイスでの小澤氏主催の若手音楽家のセミナー?に飛び入り参加されたときのことをドキュメンタリー風に記された部分があるが、あれはまさに、このカラヤンのディレクションをかなり意識して書かれているのではないかといつか思うようになった。
まあこの推測が当たっているどうかはともかく、スイス湖畔のさわやかでやさしい風光を背景に、そこへ偶然に集められた若い人たちの間に生じた、ひそやかな音楽の芽生えと賛歌が、短期間のうちにいきいきと、そしてたくましく育っていくのを、官能的と言っていいくらいの高い調べに乗せて語っておられるのを読むのは、自分にとってなかなかすばらしい経験だった。
閑話休題
そこから最近思い出したのは、作家の井上靖氏のこと。氏には詩集も数冊あり、うろ覚えで不正確かもしれないが、確か「小説は詩の小函」というようなことを書かれていたのではないかと思う。氏の小説は短いものもあるが長編も多く、そのことを読んだときには詩と散文の間に唐突に橋を架けられたような感じで、驚きもあってしばらく考えてみたが、作家でもない私には結局よく分からずじまいだった。
もちろんさっきの村上氏の話しとはかなりトーンも違うから、一緒くたの話しにするのはかなりまずいようにも思うが、そういう「大きな」散文もあるのだということを、少しは理解できるきっかけにはなったように思う。
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