
さて今年最後の日になった。読書のことを書いておこう。
ことし一番印象に残った本となると、文句なしにフランスの文化人類学者レヴィ・ストロース氏の「悲しき熱帯」だ。
(読んだのはもちろん邦訳で講談社学術文庫のものだが「悲しき南回帰線」という邦題がついている。ただ南回帰線というのは内容にあまり関係のないロマンティックな効果だけの言葉で、書物の内容からしても違和感が強すぎる。ただ「悲しき熱帯」という直訳ではあまりに即物的なタイトルではあるけれども)
学術書ではなく、氏がまだ若いころサンパウロ大学時代にやりとげたアマゾン奥地への調査旅行記が中心の書物。ただそれだけではなくて、話しも時代もあちこちに錯綜して飛びつつ、第二次大戦期のはじめ、ドイツ軍がパリ侵攻のあとで作ったフランスのヴィシー政府のもと、ユダヤ人である氏がスリリングな経緯を経て船で出国する顛末や、そのあと過ごしたニューヨークの郊外、ファイアーアイランドの特異な景色、インド(パキスタン)のガンダーラ遺跡の風景などもちりばめながら、各所で辛らつな文化文明批評が語られていて、全体としてはすばらしい紀行文と言ってよいのかもしれない。
アマゾン奥地の調査記は、昔読んでこれもすばらしく感動した本多勝一氏のニューギニア高地人のルポを思い出したが、接触できたさまざまな現地民の生きざまが語られていて、グーグルマップをたどりながらゆっくり読んでいった。だから読み終わったときは自分も一緒に旅してきたような軽い疲労感と高揚感まで味わうことができたのだった。
自分にとって本の中でのピークは、下巻のはじめごろだったか、その日に読んだ新聞か雑誌の記事について昔の調査旅行を思い出しつつ書いた彼の慨嘆の部分。記事でとりあげられていたのはこの本にもある昔の調査旅行で取材したナミビクワラ族のことだった。その記者がアマゾンのどこか田舎の町で遭遇したナミビクワラ族の人たちに対して、思いやりのかけらもない侮蔑的な記事を書いていることに、レヴィ氏がアマゾン原野の透明な結晶質の星空の下(昔のことかまた行かれたときか忘れたが)眠りにつこうとしながら天に向かって語りかける痛憤と悲嘆の場面。
氏のこの天にも届けと言わんばかりの痛切な詠嘆に対しては、本当にわたしも深く、そして強く魂をゆさぶられた。
つたない言葉でしか書けないが、人間の生きている基底のそのまだずっと底というようなものの存在を、あざやかに感じさせてくれるような文章だったと思う。地面にじかに寝てくらす(彼らのような人たちでもほとんどいない)彼らよりも、われわれは本当にうるわしくすぐれた生活を送っていると言えるのか、彼らの生きている姿の輝きは、彼らの方がもしかしたら幸せということをもの語っているのではないのか、彼我の生活は考えて比較するにも次元が違うところにいるのは確かだろうが、その違いのはざまにある堅い壁をものともせず、それを足で乱暴に蹴破ってしまうような痛烈なレヴィ氏の絶唱は、わたしにとって生まれて初めて、人間の幸せということについて、そんな彼我の違いを超えて感じ考えられる地平線のようなものをかいま見せてくれたように思う。
うまく書けないがもう少し続けると、自分も「未開人」に対して初めて、深い敬意をもって接するための共通する地平とそのための立脚点というようなことについて、多少なりと会得することができたように思ったのだ。文化文明の違いをまたにかける真の「文化人類学者」とは彼のようなことを言うのだろうかと心から思った次第。
長くなった。オセアニアや東ヨーロッパ史、またとくにインドについては多少なりと書きたかったが息が切れてしまった。まあ上のを書ければとりあえず満足と思って書き出したから、今年はこのくらいで。
来る年が本当によき年でありますよう
みなさま どうかよいお年をお迎えください
ことし一番印象に残った本となると、文句なしにフランスの文化人類学者レヴィ・ストロース氏の「悲しき熱帯」だ。
(読んだのはもちろん邦訳で講談社学術文庫のものだが「悲しき南回帰線」という邦題がついている。ただ南回帰線というのは内容にあまり関係のないロマンティックな効果だけの言葉で、書物の内容からしても違和感が強すぎる。ただ「悲しき熱帯」という直訳ではあまりに即物的なタイトルではあるけれども)
学術書ではなく、氏がまだ若いころサンパウロ大学時代にやりとげたアマゾン奥地への調査旅行記が中心の書物。ただそれだけではなくて、話しも時代もあちこちに錯綜して飛びつつ、第二次大戦期のはじめ、ドイツ軍がパリ侵攻のあとで作ったフランスのヴィシー政府のもと、ユダヤ人である氏がスリリングな経緯を経て船で出国する顛末や、そのあと過ごしたニューヨークの郊外、ファイアーアイランドの特異な景色、インド(パキスタン)のガンダーラ遺跡の風景などもちりばめながら、各所で辛らつな文化文明批評が語られていて、全体としてはすばらしい紀行文と言ってよいのかもしれない。
アマゾン奥地の調査記は、昔読んでこれもすばらしく感動した本多勝一氏のニューギニア高地人のルポを思い出したが、接触できたさまざまな現地民の生きざまが語られていて、グーグルマップをたどりながらゆっくり読んでいった。だから読み終わったときは自分も一緒に旅してきたような軽い疲労感と高揚感まで味わうことができたのだった。
自分にとって本の中でのピークは、下巻のはじめごろだったか、その日に読んだ新聞か雑誌の記事について昔の調査旅行を思い出しつつ書いた彼の慨嘆の部分。記事でとりあげられていたのはこの本にもある昔の調査旅行で取材したナミビクワラ族のことだった。その記者がアマゾンのどこか田舎の町で遭遇したナミビクワラ族の人たちに対して、思いやりのかけらもない侮蔑的な記事を書いていることに、レヴィ氏がアマゾン原野の透明な結晶質の星空の下(昔のことかまた行かれたときか忘れたが)眠りにつこうとしながら天に向かって語りかける痛憤と悲嘆の場面。
氏のこの天にも届けと言わんばかりの痛切な詠嘆に対しては、本当にわたしも深く、そして強く魂をゆさぶられた。
つたない言葉でしか書けないが、人間の生きている基底のそのまだずっと底というようなものの存在を、あざやかに感じさせてくれるような文章だったと思う。地面にじかに寝てくらす(彼らのような人たちでもほとんどいない)彼らよりも、われわれは本当にうるわしくすぐれた生活を送っていると言えるのか、彼らの生きている姿の輝きは、彼らの方がもしかしたら幸せということをもの語っているのではないのか、彼我の生活は考えて比較するにも次元が違うところにいるのは確かだろうが、その違いのはざまにある堅い壁をものともせず、それを足で乱暴に蹴破ってしまうような痛烈なレヴィ氏の絶唱は、わたしにとって生まれて初めて、人間の幸せということについて、そんな彼我の違いを超えて感じ考えられる地平線のようなものをかいま見せてくれたように思う。
うまく書けないがもう少し続けると、自分も「未開人」に対して初めて、深い敬意をもって接するための共通する地平とそのための立脚点というようなことについて、多少なりと会得することができたように思ったのだ。文化文明の違いをまたにかける真の「文化人類学者」とは彼のようなことを言うのだろうかと心から思った次第。
長くなった。オセアニアや東ヨーロッパ史、またとくにインドについては多少なりと書きたかったが息が切れてしまった。まあ上のを書ければとりあえず満足と思って書き出したから、今年はこのくらいで。
来る年が本当によき年でありますよう
みなさま どうかよいお年をお迎えください
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