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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

奈良の古建築-3:続建築史

前回の続き。歴史についてもう少し書きたい。

応仁の乱から安土桃山時代というのは、歴史を読んでいると本当に日本の革命期だったといつも思う。信長の光芒があまりにも強烈だが、その下地として戦国の動乱があった。

革命期と書いたのは、政治的にはもちろんそうだが、経済的にも社会的にも本当にそうだったと思う。そして美術の分野でも。建築においては「書院」が長い熟成期間を経て、ようやく大きく整理されて完成した姿をあらわした。そしてその時点で、ある意味での極限まで行ったのだと思う。極限までと書くのは、それ以降、様式的に発展しなかったということもあるが、後で書く例に見られるように、そう思わせるだけの精度と完成度を持っていたと思う。ただ「数奇屋」は別で、書院の発展ではなくて変種、ハイブリッド(雑種)とでも言うべきだろう。茶室と書院では、追っていた理想がまったく違うから。

江戸時代になっての発展停止は、政治的安定ということが大きな原因かもしれないが、様式が文書化されたこととは別だと思いたい。文書化はこの時代の完成度がもたらした結果の一つにすぎないと思う。ただ「茶室」もまた戦国期に胚胎され、利休の手によって極限まで切り詰めた姿にまで凝集されて、明確な一つの理想を生み出した。日本の伝統的建築様式の極北としては、「書院」とともに、「数奇屋」ではなく「茶室」をあげるべきなのかもしれない(もともとは数奇屋と茶室は同義だが)。

ここからしばらくちょっと専門的になるので、分かりにくければ読み飛ばしてください。

この時期の「書院」として見事な例がいくつも残っているが、若い頃にそれらのあまりの相同性に非常に驚き、強く感動した記憶がある。そこに一つの建築理想としての「書院」の、具体的な原型の存在を感じたからだ。おもいつくままそれらの例の名前をあげると、三井寺の光浄院(1601)および勧学院(1600)の客殿。東京は護国寺の月光殿(やはり三井寺からの移築)。東寺の観智院客殿(1605)。これらは若い頃に実際に見に行った。とくに最初の三つはほとんど同じと言ってもいいくらいのもので、手元にある最初の木割書である「匠明」に描かれた客殿もほぼ同じだ。これらがほんの10年ほどの間に次々と建てられ、その間には、内法(うちのり)制の畳割モジュールが最終的に完成していく進化の跡までたどれる。

自分の中ではそれらの持つ(観智院にはないが)「中門廊」の存在がずっと謎だったが、はるかに平安時代の寝殿造りの系譜を直接引くものだということを、最近ようやくある本によって腑に落ちるように理解できた。そして「門」という建築アプローチの、ある特殊な景色を、伝統がいかに大事にし、こだわり引きずってきたかということに、あらためて感嘆させられた。建築はある意味では本当に保守的なものなのだ。


ともかく江戸時代初期に、規模としては二条城二の丸御殿に代表される書院の姿として完成されたが、それらに残る金碧の障壁画は、成熟した建築様式の静けさを背景に、激動の時代のすさまじかった息吹と熱気を同時に感じさせてくれる。

ただ徳川の世になり、ようやく政治的にも落ち着いて長期の安定期に入ろうとするこの時代になって、それらの熱気が静かに冷えて沈殿していこうとしたとき、それを驚くほど繊細に、また柔らかな感覚でみごとに定着したのは、時代を導いた武家ではなくて、はるかな王朝の伝統と高いプライドをもつ公家だった。これは、さすがというか何とも印象的だ。

長くなった。歴史についてはこれでいったん終わろう。次回は慈光院の続きから。
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