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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

奈良の古建築-5:茶人達

この機会を利用して、せっかくなのでまた歴史のこととなるが自分なりの整理のためにも、茶室のことについて少しまとめておこう。といっても大げさなことはとても無理だから、勝手な選択で、建築に関連の深いコアな部分だけを。

WEBという便利な道具のおかげで簡単に調べることができたが、下は慈光院を作った片桐石州まで、戦国から江戸初期に生きた数人の著名な茶人の生没年と、参考に出身地。誕生順に並べておく。

千 利休 1522-1591 大阪府堺市
古田 織部(ふるた おりべ)1544-1615 美濃国
織田 有楽(うらく)1547-1621(信長のかなり下の弟)
小堀 遠州 1579-1647 滋賀県長浜市
片桐 石州 1605-1673 摂津 茨木市

あと政治の世界で、次の三人の生没年を。
織田信長1534-1582(織田有楽の兄)
豊臣秀吉1537-1598
徳川家康1543-1616

補足として、本能寺の変は上記で分かるので、1600年関が原の戦い、1603年には江戸幕府が開かれた。たどっていても、まさに目まいのするような激動の時代であった。

茶人では前半の三人が戦国時代の末を生き抜いた人たち(小堀遠州も武将だが、関が原のときはまだ家督も継いでおらず、弱冠20か21歳だった)。利休と織部は、最後はどちらも時の権力者である秀吉と家康によって殺されている。そして華やかな素性の有楽さえ、無事生き抜いたとはいえ、世も変わり、すねに深い傷を負ってのことで、安穏な人生だったとはとても思えない。だから草庵茶室を生み出した「わび茶」の一見ひなびた静けさの背後には、簡単には近寄りがたいような厳しさと極寒の深淵が潜んでいると考えるべきなのだろう。

ずっと前にも書いたが、国宝の茶室として三つある。というか三つしかない。一つは利休の「待庵」。次に、その時に書いていた「如庵」。織田有楽のものだ。この二つは私も訪れたことがある。最後の三つ目はまだ行ったことがないが「密庵(みったん)」で小堀遠州の手になる。

三つを比較すると、最後の「密庵」だけが、いわゆる草庵茶室ではない。故西沢文隆氏も言うように、書院の(部屋の)中にある茶室という、かなり特殊な造りになっている。遠州の茶は「きれい寂び」という言葉で表現されるが、つきはなして言えば、徳川のゆるぎない趨勢の中に身をおいて、非常に賢い世渡りをしていったように見える。でも彼は晩年の利休にも会っているらしいし(10歳くらいか)、さらに織部の弟子だから、彼らの死がどんなに深く彼の心に刻み込まれたか、私の想像の域をはるかにこえる。そして彼は、戦国末期のあまりにも厳しく凝集された時間の中で完成されてきた「わび茶」に対して、劇的に様変わりした平安の世に合わせ、なんとも「クール」に、新たな展開の道筋をつけていったように思う。

桂離宮も大きく彼の影響下にあると言われるが、前回まで書いてきた「書院」と「茶室」を、徳川の世の集約された雰囲気を背景に、武家の茶人として、彼はおそらく命をかけてまとめようという試みをやった人ではなかったかと思う。それほどよく知らないので、これ以上は口をつぐむべきかもしれないが、レトリックの勢いのままに書くと、「密庵」を写真で見ても、彼の号でもある「孤蓬庵」を訪れても、単に書院を「くずした」というような意味での「数奇屋」ではない。そこでは、それらは互いに「書院」であり「草庵茶室」であるという背筋の伸びをまったくたわめないまま、極度に繊細な緊張感をもってそのまま共存しているように思う。

石州までたどりつけなかった。以下次回に
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