FC2ブログ

松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

奈良の古建築-6:慈光院3

明日はいよいよ早朝から久しぶりの植栽工事。忙しいのは確かだが、とにかく慈光院までは何とかけりをつけておきたいと思う。もうそのうち季節が移ってしまう。

利休のわび茶が、織部を経て遠州へと発展していくときの印象的なできごととして、利休の秘伝書として伝わる「南方録」に有名な記事がある。勝手な大意を書く。

「昨今の茶会で、小座敷だけではと、鎖の間と称して別に書院などの座敷を用意し、そこへ移って改めて接待するようなことがはやっているが、そういうことは侘び茶がすたれる元となるのでやってはいけない。」

でも織部以降は、この利休の意にそむくような流れになっていった。今では広間の茶はコースの一つ。富裕な中世の自由都市堺の町人と、その後を引きとった権力の軋轢に生きる武人の違いもあっただろうか。秀吉から家康へと権力は移ったが、その周囲に政治的な体制がどんどん確立発展していき、官僚主義の息苦しさまで感じるような世の中になりつつあるとき、あまりにも自由だが、その対価として命までかけねばならぬような強い緊張感と厳しさをはらむわび茶には、そのまま生き延びていく余地など、もはや誰も(誰だって!)見つけることはできなかったのだ。

さて、上に出てきた「鎖(くさり)の間」と称された空間がキーワードのようだ。喫茶の当初の舞台も書院だったが、小間(こま)に凝集されたわび茶をへて、書院の茶はここからあらためて発展していった。「書院」と「小間」の間に、もう一つ別の「鎖の間」を設定することで、書院の格式には手をつけず、草庵でも書院でもなく、それらを自由に組み合わせた舞台をあらためて考えることができるようになったのだろう。いわゆる今につながる「数奇屋」建築の誕生だ。

あまり詳細に見ていないので詳しいことは書けないが、昨日の写真の慈光院の角の大広間も、おそらく概念としては「鎖の間」だったのだろう。下の写真はそこで180度振り返ったアングルだが、床の左手が畳敷きで、奥は襖になっている。その場合はこの畳が手前座になるのだろう。
慈光院 床の間

この形は桂離宮にもあるし、数奇屋書院には珍しくもないが、自分が書院の高峰(さらに日本の伝統建築と言ってもよいが)のなかで唯一見逃していると思っている、西本願寺の黒書院もそうだ(ただ奥は付け書院になっている。まったく余談だが、誰かここを拝見するツテを紹介してもらえないものだろうか?)。また昨日書いた遠州の孤蓬(こほう)庵の有名な「忘筌(ぼうせん)」席も同じかたち。

さて、ようやく本題の慈光院にふれる時がきた。石州は遠州の弟子ではないが、その後を継いで将軍家指南役に上った。「奈良の古建築-2」で引用した記事にあったように「茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部」が揃っているということは、すでにここで、ほぼ今と同じような茶の湯の形式が確立されていたということになる。

ただ様式的には、ある極点を突破したという余裕と誇らしさは感じるし、また空間構築のすばらしい大胆さや見事さはあっても、ここにはもはや驚くような厳しさやためらいは存在しない。借景した大和の穏やかな田園風景とあいまって、安定期に入った江戸時代武家社会の、華麗だが平和で落ち着いた隠遁生活の様子がうかんでくるように思う。

でも書院の間の鍵の手の大開口は、その日の写真でも分かるように、建築として本当に見事なものだ。書院と書いたが、いわゆる様式のボキャブラリーとしての長押(なげし)はついていない。でも上の写真の床の間とその脇にある付書院のたたずまいを見ても、書院としての格調はまぎれもない。「鎖の間」という概念を「てこ」として、格式に固まった書院に颯々(さつさつ)たる風を通し、現代にまでつながる「数奇屋」様式の一つの典型として、すばらしい建築だと思う。
スポンサーサイト

  コメント


管理者にだけコメントを閲覧させることができます