
昨日の続きで今年の読書について。
まずは去年の続きのような感じで、やはり明治の初めごろに日本にやって来た外人の本を見つけて読んだのが、エドワード・S・モースの「日本その日その日」。これもなかなか面白く読みましたが、去年のイザベル・バードさんは女性でイギリス人の旅行家。モースはアメリカ人の男性で考古学者。大森貝塚の発見者としても有名です。
男と女や仕事の違いはともかく、当時のイギリス人とアメリカ人の違いや日本に対する見方について、それぞれが鮮やかで、それらを比較しながら考えてみるだけでもとても面白く、今回は一気に読みました。
初めて来たのはモースの方が先で、明治10年。イザベルさんはその翌年でした。同じように最初に日光へ行き、あとで北海道のアイヌの部落も訪れています。北海道行きは、もしかするとほぼ同時期だったかもしれませんが、イザベルさんの雰囲気からすると、そうだとしても同じ白人でもアメリカ人にはわざわざ会おうとまではしなかったように思います。(**つづき)
さてそのモースの本を読んでから、彼によるもので私の仕事にも関係する「日本人の住まい」という本もあったので読もうと思いました。ただ訳者が異なる二種の本があって、迷いましたが比較的最近のものを買うことにしました。でもその訳者は建築のことはそれほど知らないようで、私としては少し読みにくくて、途中でおいてしまいました。図書館でそれ以前の1981年に出た本を借りてきて半分ほど読みましたが、これは私の大学時代の先生でもある上田篤先生たちの手になるもので、やはり読みやすくてこちらを買えばよかったとあとで思った次第です。
さてここまでは去年の続きでしたが、実は今年の読書で本当に書こうと思ったものは別にあって、次の本でした。宮部みゆきさんの「孤宿の人」。私は宮部さんの時代劇が好きで、以前から図書館にあればよく借りてきて読んでいます。夏頃でしたか、これも時代劇だと分かって借りて来ました。
まあ私にとっては軽い読み物のつもりでしたが、単行本で上下二冊組ですので、そんなに短くはないのですが、読み進むうちに、これは彼女の本ではいつものことですが、強く引き込まれてしまい、一気に最後まで読んでしまいました。
宮部さんの筆力のすごさは知っていますので、それだけならいつもの通りのはずでした。ところが最後のエピローグの部分になって、自分でも不思議に感じたほどですが、なぜか一気に涙腺が崩壊してしまいました。これはなぜかよく分からず、自分なりにもちょっと恥ずかしいと思えるような出来事でした。まあその理由などはうまく書けませんが、ざっとでも考えて思うのは、おおげさすぎるかもしれませんが、人間は生きて死ぬという、その当たり前の人生とは、つまりはこういうことなんだと、どこか腑に落ちるようなところがあったからだと思います。小説全体としては、ちょっとおおざっぱすぎると思えるようなところもありましたが、物語の一番最後に、「宝」が丘の上の「おあんさん」の墓に向かって走っていくときの文章や、その背景としてのはるかな瀬戸内海や街並みの景色は、心に深く刻まれました。
まずは去年の続きのような感じで、やはり明治の初めごろに日本にやって来た外人の本を見つけて読んだのが、エドワード・S・モースの「日本その日その日」。これもなかなか面白く読みましたが、去年のイザベル・バードさんは女性でイギリス人の旅行家。モースはアメリカ人の男性で考古学者。大森貝塚の発見者としても有名です。
男と女や仕事の違いはともかく、当時のイギリス人とアメリカ人の違いや日本に対する見方について、それぞれが鮮やかで、それらを比較しながら考えてみるだけでもとても面白く、今回は一気に読みました。
初めて来たのはモースの方が先で、明治10年。イザベルさんはその翌年でした。同じように最初に日光へ行き、あとで北海道のアイヌの部落も訪れています。北海道行きは、もしかするとほぼ同時期だったかもしれませんが、イザベルさんの雰囲気からすると、そうだとしても同じ白人でもアメリカ人にはわざわざ会おうとまではしなかったように思います。(**つづき)
さてそのモースの本を読んでから、彼によるもので私の仕事にも関係する「日本人の住まい」という本もあったので読もうと思いました。ただ訳者が異なる二種の本があって、迷いましたが比較的最近のものを買うことにしました。でもその訳者は建築のことはそれほど知らないようで、私としては少し読みにくくて、途中でおいてしまいました。図書館でそれ以前の1981年に出た本を借りてきて半分ほど読みましたが、これは私の大学時代の先生でもある上田篤先生たちの手になるもので、やはり読みやすくてこちらを買えばよかったとあとで思った次第です。
さてここまでは去年の続きでしたが、実は今年の読書で本当に書こうと思ったものは別にあって、次の本でした。宮部みゆきさんの「孤宿の人」。私は宮部さんの時代劇が好きで、以前から図書館にあればよく借りてきて読んでいます。夏頃でしたか、これも時代劇だと分かって借りて来ました。
まあ私にとっては軽い読み物のつもりでしたが、単行本で上下二冊組ですので、そんなに短くはないのですが、読み進むうちに、これは彼女の本ではいつものことですが、強く引き込まれてしまい、一気に最後まで読んでしまいました。
宮部さんの筆力のすごさは知っていますので、それだけならいつもの通りのはずでした。ところが最後のエピローグの部分になって、自分でも不思議に感じたほどですが、なぜか一気に涙腺が崩壊してしまいました。これはなぜかよく分からず、自分なりにもちょっと恥ずかしいと思えるような出来事でした。まあその理由などはうまく書けませんが、ざっとでも考えて思うのは、おおげさすぎるかもしれませんが、人間は生きて死ぬという、その当たり前の人生とは、つまりはこういうことなんだと、どこか腑に落ちるようなところがあったからだと思います。小説全体としては、ちょっとおおざっぱすぎると思えるようなところもありましたが、物語の一番最後に、「宝」が丘の上の「おあんさん」の墓に向かって走っていくときの文章や、その背景としてのはるかな瀬戸内海や街並みの景色は、心に深く刻まれました。
**読んで少したってから感じたのは、イザベルさんは、探検家とも言われることがあるように、他者としての「日本」よりも、本当に書きたいと思っていたのは自分自身であり、未開の国に乗り込んて奥地まで入った自分の力強い勇敢さではなかったかと思ったりしました。日本語をまったく知らず、それほど英語も分からない日本青年だけを連れて、日光から陸路で青森まで行くという無謀とも思われる大旅行をやりとげたのは、それなりに大したもんだとは思いますが、その無謀な冒険をやりとげること自体が日本を訪れた一番の目的だったかと思いました。そして「日本」そのものに対しては、それに付随するエピソードにすぎなかったようにも思います。
昔読んだ会田雄次氏の「アーロン収容所」の女性兵士のことを何となく思い出しました。日本文化に対して深く理解しようと努力し、まだ若い文明開化の日本に対して、学者として大きな恩恵をさずけたモース氏の本を読んで、そんなことを感じた次第です。
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