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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

姉歯建築士-8

では何を誓うのかということになるが建築家にとっては、ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスによって説かれた「美・用・強」という建築の三要素が手がかりになるかもしれない。その理想としては、みめうるわしく、必要な機能を満たして使い勝手もよく、十分な強度を持って安全ということになるだろうか。

でもこれでは「美」についてはともかく、機械などの性能と同じことで、設計者としては単に目的としての前提条件にすぎないだろう。姉歯氏はこんなところで踏み誤ったのではないわけで、これについては自分を十分な技術をもった確信犯として、まったくたじろぐことはなかっただろうと思う。そして彼が、多分今では決定的に踏み違えてしまったと感じているような「倫理」となると、もっとはるかに違うところを探さなくては見つからないのではないか。建築家という職能の中をいくらかき回しても出てこないだろうということだ。 ・・・続く

姉歯建築士-7

二つと書いたもう一つの要素は、政治的なものと言ってよいだろうか。前にも書いたが、「善い方」をめざして全体をコントロールしていくということだ。ただ言い方があいまいだし「政治的」というような言葉をわざわざ使うのは、その「善」の多様性と非情を思うからだ。政治の世界は冷徹と言われるが、それは手段を選ばない非情さのゆえで、歴史を見ているとそのパワーゲームのすさまじさには呆然となる。対象となるのはまあ手当たり次第で、文学や芸術はもちろん宗教でさえ手段として役に立つならばその餌食の例外にはなりえないし、「得」にならないと見れば遠慮なく切り捨てられていく。

まるで獰猛な怪物を見るようだが、むき出しにされた「私欲」とはそういうものなのかもしれない。昔、修行時代をすごした事務所の師から、「支払う金が自分のだったらと考えてみなさい。そうすれば図面や見積書に対してそんな甘い考えは出てこないはずだ。」と口すっぱく言われたことを思い出す。「善をめざす」と言葉で書くと大げさだが、その根源をたどると生物的本能に近いそういう個人的な利害の感覚(感情?)にまでつき当たるわけで、「私欲」をまったく無視して人のためにつくすというのは、つきつめて考えるとやはり人間にはありえないことではないかとあらためて思う。

古代の哲学者は、戦争に明け暮れて滅んでいく人間の不条理を嘆じて「人間は誰も善いことをしたいと思っているのは確かなのだ。ただ自分にとって本当に善いことが何かを見まちがってしまうのだ。」というようなことを言った。まあこれが哲学史上において人間は生まれつき善を求めているという「性善説」に分類されるのか、その反対の「性悪説」となるのかは知らないが、善の多様性と意外なほどの困難さは理解できると思う。

建築家の倫理としては、間口を広げすぎているという反論もあるかもしれない。ただ「倫理」というからには、簡単に建築家という職業(職能)に限定するわけにはいかないと思う。英語にProfessionという単語があって、カッコに書いた「職能」がこの訳語で、他の職業Occupationなどとは一応区別され、その「職能」の西洋的三点セットが弁護士、医師、建築家だ。動詞のprofessとは辞書では告白するという意味だが、頭が大文字になれば少し意味が重くなり「神に対して」というようなことになって、「発言する」ひいては「誓う」というような意味になるのだろう(神様は多分しゃべらないから対話にはならない)。・・・続く

姉歯建築士-6

建築家の倫理についてまとめていきたい。まず建築家という職業の内容には大きく二つの要素があると言ってよいと思う。一つは言うまでもなく設計だが、それはいわゆるデザインや意匠という言葉で言われるような分野が主で、目に見える造形物としての建築が主題だ。つまり美的感覚やセンスがいわゆる建築家としての能力の大きな尺度となる。ひっくるめて芸術家・デザイナーと呼ばれるゆえんだろう。

もちろん設備や構造も目に見える形として表れてくるので、それら全てに主導的な立場で関わりを持つことになる。設備については必要十分な機能を確定して機器の選定にも加わり、露出する部分の配置や配色ともなればまったくわれわれの領分だ。構造については、デザイン様式の一つとして構造そのものを造形的主題としたスタイルがあって、これは昔から日本人には好まれる傾向にあるほどだから、柱や梁の寸法にまで細かくこだわることが多い。・・・続く

姉歯建築士-5

政治というと金がつきもののように言われるが、そういう悪い意味はともかく、実際、お金の裏づけがあって初めて物事は動いていく。家計があって、そのやりくりに頭を痛めるのはどこの家庭でも同じだろう。食費に始まって住居や服食費、光熱費、レジャーや、嗜好品・・・どこにどのくらいお金を使うかというのは、日々の小さな決断の積み重ねだ。進学や就職、結婚から葬式に至るまで人生のあらゆる細部にまでお金のことはつきまとう。

建築の世界ももちろんだ。前に書いた「善い」方向を見つけるというのも、実はお金の話の整理が苦労の半分以上かもしれない。確かにお金というものはいわば「善」を物質化したものと言ってもよいと思う。これの裏づけを得て、物事はいっそう具体的になり、明確な姿を現すようになる。いわば「経済」の光が、雑多に交じり合った物事の全体的な秩序を一気に照らし出すというような具合で、古代の哲学的な「善」の意味とはもしかするとこういうことだったのかと目からうろこが落ちるような思いがしたことは何度もある。

ただし「善」と「お金」はある意味並行的な価値であっても、精神的と物質的というような違いは歴然としてあるだろう。今なら全ては経済だというような風潮もあって精神的な価値など風に吹かれて飛んでしまいそうだが、人の命にまで値段をつけるとき(今は裁判でも珍しくないが)、かろうじてその価値の虚ろな正体が見えてくるように思う。でも少しこういう議論に深入りしすぎたようだ。次回は軌道修正して本題へ戻ろう。・・・続く

姉歯建築士-4

では建築家の倫理とはということになるがその前に、正義という言葉が出たのでそれについて少し。

「真・善・美」という言葉がある。西洋の古典的な価値の三点セットと言ってよいだろう。ここに「正義」という言葉がないのが昔から不思議で、「真」の一種なのかと考えたりしたこともあるがやはり違うようで、人生の後半を使ってこれから考えてみたい事柄の一つだ。

ただ、正義が危ないのは身にしみて知っている。ヒットラーやスターリン、毛沢東の例を引くまでもなく歴史の落とし穴には必ずと言ってよいほどその猛毒がひそんでいる。「ほどほどの正義」などと言ったら正義感にあふれている人には叱られるだろうか。

さて本題の建築家の倫理だが、さきほどの三点セットを引けば「善」ということになるのだろうが、これは簡単に言ってしまえば、単に物事をよい方向に導いていくという意味にすぎない。ただ仕事の規模や範囲も含めてよく考えるとそれこそなかなか難しいことで、真も美も正義も一応含めなければならないし、いわゆる施主(建築家を雇う人)の立場から考えるだけでは済まず、各工事業者のことや近隣住民、さらには国土や環境のことまで関連することになる。もちろん自分のポリシーという個性もあるわけだ。

これら全体を考えて「善い」方向を見つけていかなければならないのだから複雑怪奇、価値の錯乱もしかるべしというところだろう。これはもはやほとんど「政治」の世界と言ってもよいと思う。

政治というといわゆる「政治家」の悪弊やスキャンダルであまり印象がよくないが、本来的には良識以上に高度の知恵や人生経験が要求される、人間にとっては最も高い位置にある職業(職業だとすればだが)だというのは間違いないだろうと思う。職業だとすればと書いたのは、人間であるかぎり一応は誰もが政治家でなくてはならないからだ。・・・続く