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松田靖弘のブログ

仕事とする建築のことや大学で教えている緑のことなどをはじめ、自分の日常の些細なことまで含めて気が向くままに書いていきます。

詩仙堂と芭蕉庵

今回も建築見学会の続き。

曼殊院を出てから歩いて南下。次の目的地「詩仙堂」に向かう。ここはほとんどの人が来たことがあったが、一人どうしても見たいというメンバーがいて、立ち寄った。TVの番組を見て行きたくなったとのこと。やはりTVの影響は大きい。今までの記憶では、庭以外にあまり印象がなかったが、今回は建物にもゆっくりと対面してきた。実は現在、伝統建築を手がけているからか、古建築に対する向い方というか見る精度が、昔に比べて格段に上がってきたような気がしている。

詩仙堂2011
さて建物は昔のひなびた住まいそのままのような数奇屋普請だが、庭への面し方など、さすがにいろいろと考えてあることが分かる。庭から見ると屋根も単純ではなく、上階に見晴らし場のような部屋もあるようで、隠れ家のようで面白く、いつか特別拝観でもしてくれないかなと思って見ていた。

詩仙堂を後にすると古建築はお終いのはずだったが、すぐ近くに「芭蕉庵」という茶席があるので寄ってみませんかという提案が出た。「金福寺(こんぷくじ)」というお寺で、入ることにしたら、なかなか興味深いところだった。
芭蕉庵-1

それは俳人で画人の与謝蕪村(よさぶそん)ゆかりの寺だったからで、彼と仲間達で、荒廃していた敬愛する芭蕉ゆかりのこの茶室を再興したという記事も、そういえばいつかどこかで読んだことがあったのを思い出した。芭蕉も滞在したことがあり、蕪村の墓もこの寺にある。ただ本坊に展示してあった蕪村の書画や、昔誰かの小説で読んだことのある幕末の村山たか女の事蹟などに気をとられ、わたしは墓の存在を知らぬままに出てしまった。あとで一人に聞かされてちょっと悔しい思いをした。
芭蕉庵-2

この後南下して京都造形芸術大学のキャンパスを見学し、あとは今出川通りを西に、百万遍の交差点付近で打ち上げ(反省会?)をやって予定は無事終了。
途中、造型大学を出たあたりで激しい雨になり、ぬれねずみになったが、打ち上げが終わった頃にはすっかり雨も上がり、夜風に吹かれながら帰途についた。記念に蕪村の句をあげておこう。

四五人に月落ちかかる踊(をどり)かな

曼殊院

建築見学会の続き。

修学院離宮をあとにして、次の目的地、近くの曼殊院(まんしゅいん)に向かった。歩いて15分くらいのところ。私たち4人は10時からの第二班だったので、途中の関西セミナーハウスで、のんびりお茶をしていた先発隊と落ち合った。曼殊院では、普段は非公開の「八窓席」が特別公開していて、これはあらかじめ私の方で予約していた。着いたのは12時前。八窓席は午後1時の予約だったが、普段から公開している書院や庭もあるので昼食をがまんし、入って待っていようということになった。

わたしは修学院離宮も二回目だが、ここは多分三回目。でも以前は茶室にはそれほど興味がなかったし、ともに重文の大書院・小書院(こしょいん)とも、数奇屋書院としてはすばらしい部類ではあると思うものの、離宮に比べると多少荒れている雰囲気も感じ(比べるのは酷だが)、今までそれほどの印象はなかった。

でも今回は八窓席が開かれ、予約時にどうやら中に入れると分かっていたので期待もし、茶室の権威である建築家堀口捨己氏の解説を引っぱり出してきて、コピーしてみんなに配った。

残念ながら、写真撮り放題だった修学院離宮と違い、庭はともかく内部の撮影は一切禁止だったからあまり大した写真はない。下は大書院の濡れ縁から小書院を眺めたところ。庭に面した一番奥の「富士の間」の左奥に(見えないが)上段付きの「黄昏(たそがれ)の間」があり、そのさらに背後に「八窓席」がある。
曼殊院2011

さて上で書いた「富士の間」の脇に二畳の間があって、やはり茶室になっている。狭くて天井が低いのと、最低限のしつらえ以外に部屋の意匠はそれほど変ったこともない。ただ片側は「富士の間」につながり、反対側も外に面した障子のある畳廊下に接していて、残る二方は壁だから両方のふすまを閉め切ると真っ暗になる。おそらく通常は畳廊下側のふすまは開いたまま使ったのだと思うが、二組のふすまの開け閉めで部屋の様相が劇的に変ることが明らかで、いろいろなシーンを思い浮かべてみるのがとても面白く、それだけで軽い興奮を味わった。

書院の見学をのんびりとしていると、いよいよ八窓席見学のお呼びがかかった。三畳台目の茶室なので、やはり七人同時は無理で、私は先に3人で入れてもらった。時間にして15分くらいだったろうか、前に書いた如庵のときより人数も少なく、落ち着いた感じで過ごすことができた。手前席から正客、次客の席など交代して場所を移りながらのゆっくりとした滞在で、終わったあとはみんな感激の気分だった。あとで聞くと修学院離宮よりこっちの方がよかったという人も数人いた。

ここをでるとあと少しだが、またあらためて。

修学院離宮

先週の土曜日は久しぶりの京都。市内北東部にある修学院離宮へ行ってきた。このところ毎年恒例になってきた建築見学会だ。前回から丁度一年ぶりになる。今回は7人が参加。メンバーの1人K君が京都市内に事務所を構えたので、御所の宮内庁へ行って予約を取ってくれた。昔は往復はがきの手段だけで、今はWEBでもできるようになり期間も短くなったが、複数人の予定を調整しないといけないのでやはり日程が決めにくい。でも直接御所へ行けば、その場で空いている日にちや時間を教えてくれて予約できるとのこと。自らはすでに桂離宮へも行ってきたそうだ。

拝観は当日の9時からの朝一番と10時からの二番手の二班に分かれた。
修学院離宮-0

ここからは修学院離宮の中のことを書くが、行ったことのない人には案内図などないと分からないかもしれない。とりあえずこの宮内庁のサイトの略図でご覧ください(以下通称で茶屋と書いているが略図にある「離宮」を茶屋と読み替えてください)。
修学院離宮-1
さて上の写真は事務所から下の茶屋へ向かう途中の庭の写真(略図で①の辺り)。さすがに見事に手入れが行き届いていると感心。下は「下の茶屋」(同じく②付近)。
下の茶屋

次の「中の茶屋」は、当初のものではなく息女の住まいが死後門跡寺院となっていたものだそうだが、客殿の部分が明治になって国に返還されて整備されたそうだ。だからここだけはもともと住まいで、高貴の方の御殿だから、客殿は寝殿造風で部材のスケールも大きな御所風の書院だが、この写真は敷地の下のレベルに客殿に寄り添って建つ数奇屋風書院(右手上にわずかに客殿の屋根が見えている。略図で③の南側から北望)。御殿の中の私的な部分ということだろう。

女性の住まいなので、セキュリティには工夫がこらされ、中でも客殿とつながる部分の階段が蹴上(けあげ)踏み面寸法とも、わざと大きく変えてあるのは面白かった。確かに照明もない時代には、暗闇に慣れた曲者(くせもの)といえど危なかったろう。
修学院離宮-2

次は一番上の「上の茶屋」からの景色(略図で⑦からの北西望)。ここまで登ると標高150mほどになるそうだ。南西には京都市内が望め、西北も西山、北山の山並みが借景として大きく横たわっている。ここからの広々とした眺望がやはりこの離宮の圧巻だろう。

写真が小さくて残念だが、日本離れしているというか、桂離宮を頂点とする池泉回遊式の日本庭園の定義をはるかに超えて、格段にスケールの大きな庭園だ。借景の大胆さと言い、雄大と書きたい気分もあるが、ヴェルサイユのフランス庭園などと比べると、やはり日本的な優美さや端正で繊細な感性の方を強く感じる。
修学院離宮-3

最後は先ほど上から眺めた庭の池の周囲を廻ってきたところの写真(略図で⑬と⑭の中間辺りからの南望)。中央右手奥の丘の上に先ほどいた「上の茶屋」が見えている。また左手に茶室の待合のような東屋が見えているが、この位置だとまったくの展望席で、日本の伝統ではあまりお目にかからないような趣向だ。

この丘を、従者に日傘を持たせた立烏帽子(たてえぼし)に束帯姿の公家たちが、しずしずと歩んでいる姿が思い浮かび、なんとも贅沢なものだとため息が出た。でも先発隊にあとで聞くと、江戸幕府の作った公家諸法度により、ここを作った上皇といえど、泊まることは許されなかったそうだ。住まいはあくまで仙洞御所で、武家の厳しい監視の下で日帰りの遊興しかできなかったということになる。資金は幕府から出たのだから仕方がないのかもしれないが、ちょっとあわれな感じもした。
修学院離宮-4

当日はまあこの修学院離宮拝観がメインだったが、出てからのことはまた日をあらためて書きます。

国東半島 :富貴寺

書くことがいっぱいあるので、話が飛ぶ。

次は多少遠方だが、その翌日早朝から週末二日をかけて行ってきた大分(おおいた)の旅。一番の目的は、国東(くにさき)半島にある「富貴寺大堂(ふきじおおどう)」という、平安時代末に造られた阿弥陀堂を見ることだった。山中の不便な場所なので、別府駅に着いた昼過ぎから24時間でレンタカーを借りた。駅前から一時間ちょっとのドライブ。台風が来ていたのでどうなるか心配したが、雨も上がっており、無事中にも入ることができた。というのは、雨だと中の壁画が傷むため閉め切られ、中へは入れてもらえないからだ。建築は国宝で、期待にたがわずというか、それ以上の何ともすばらしいものだった。ただしここも中は撮影禁止。

富貴寺

ゆっくり拝観してから、とりあえず今回の旅の当初の目的は十分に達したのでホッとし、帰途、近くの真木大堂(まきおおどう)へも寄った。本堂は江戸時代のものと聞いていたのであまり期待していなかったが、最近建てられたと思われる大きな宝物殿があり、そこへ入って本当にびっくりした。やはり平安末の大きな仏像が三体、脇侍を従えて横に並んでおられ、そのどれもが目を見張るようにすばらしいものだったからだ。ちょっと失礼だが正直、こんなところにこんなものがあるとは!という感じで、私にとっては余禄だが、なかなかすばらしい経験をさせていただいた。

翌日のことはまた次回に。

奈良の古建築-16:霊山寺-2

霊山寺から話しがそれてしまった。
ここの本堂もやはり新和様建築の代表的な遺構の一つ。時代も規模もほぼ同じだが、長弓寺が桧皮葺(ひわだぶき)なのに対して霊山寺は本瓦(ほんがわら)葺。あと扉の仕様や細部の意匠もかなり異なる。長弓寺の方が再建東大寺に導入された新様式の天竺(大仏)様の影響が強く、斬新で派手な感じがする。対して霊山寺本堂の方は、より伝統的で落ち着いた感じと言ってよいだろう
霊山寺本堂外観
ただこういう知識は長弓寺から帰ってから本で読んだので、このあたりや、先に霊山寺を知っていれば、長弓寺へ行ったときの落胆の気持ちや違和感も、かなり異なったものになっていただろうと思う。

霊山寺は、長弓寺に行ってしばらくしてから一人でたずねた。建築当時の状況やその後の経緯はよく知らないが、今は霊山寺の方がはるかに盛況の様子だった。何より平群(へぐり)丘陵の山ふところに抱かれた緑豊かな境内のしっとりとしたたたずまいは、なかなかすばらしかった。樹木はモミジが多くて南都のお寺では珍しいような繊細で濃密な感じの雰囲気。ちょうどまだ新緑のあざやかな頃で、まるで京都のどこかのお寺の境内のようだと思ったくらい。
霊山寺境内

加えてふもとの入口付近には、有名なバラ園やレストラン、銭湯?温泉?まであり、まるで一山全体が伝統的なレジャーセンターみたいになっている。さっき長弓寺とくらべて「盛況」と書いたが、より正確には「繁盛(はんじょう)」と書くべきだったかもしれない。ただ遊園地なんかとくらべて決定的に違うのは、やはり背景というか基盤には、おごそかな宗教が在るというところだろう。信仰あつい年配の人々などにとっては、盛りだくさんによくできていて、心の底まで洗われる、非日常的な癒(いや)しの空間になっているんだろうなと感心したが、同時に奈良の歴史や宗教の分厚さを、あらためて強く感じさせられた。

余談が長くなった。次回は長弓寺の断面図へ戻ろう。